聚楽第
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京都府京都市上京区一条堀川
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二条城の東、堀川通を北へ歩く、堀川中立売の交差点を西へ800mぐらい、正親小学校の所には聚楽第(じゅらくだい)の碑がありました。
2009年3月、京都。 春よ来い、どんなお城だったのかな、想像もできないね。
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二条古城から西北には京都府庁、更に西の堀川通を北へ歩いてきた。
大きな堀と石垣に守られ、白壁の土塀や櫓で囲まれた内側には、本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守があったらしいよ。
道理でお城の事が分からないのは、秀吉自身が壊したからなんだね。 |
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かつてこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから、「内野」と呼ばれていました。
のち、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に、秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城がありました。
天正十四年(1586)、秀吉は聚楽第の築城を開始し、翌年には北政所(おね)、母の大政所とともに大坂城から移り住み、政務を執るようになりました。
秀吉の甥で後継者の秀次の二代にわたる関白の城として使われ、豊臣家の洛中支配の象徴だったのです。
この城は幅20mから43m、深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓が豪華な城郭でした。
城は内郭と外郭の大きく二つに分かれ、内郭はさらに本丸、南二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸に分かれます。
これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠、南二ノ丸の南側と西側の濠、さらに北ノ丸の北濠と石垣などが明らかにされました。
特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されています。
天正十六年(1588)には、後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も、秀次の失脚に伴い、秀吉の命により文禄四年(1595)に破却され、わずか九年の短い歴史を閉じています。
『現地案内を参照』
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「黒田如水邸」
聚楽第から東へ歩いて、一旦堀川通に出てから一本北側の道を西に入るよ。
正直、見つかるとは思わなかった。
そう我等が官兵衛だよね、嬉しいよね。 |
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「名和長年公戦死之地」
如水邸から西100m、南へ入ると名和公園と神社があるよ。
後醍醐天皇の隠岐脱出に尽くした南朝の臣だ。
尊氏が九州から東上した時、この地で討死する。
ここは時代を超えた史跡の宝庫だね、北へ進んで船岡山城へ急ぐよ。 |
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