亀岡城
京都府亀岡市古世

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  国道372号線で丹波篠山を過ぎて京都府の県境から約10km行くと、まもなく亀岡市に入ります。 この亀岡市街のほぼ中央に亀岡城(かめおか)があります。

この地はすぐ東に京の都、西北には福知山、篠山やさらに西へは播磨・但馬へと続く交通の要衝であり、明智光秀の丹波平定の拠点となっていたところなのです。

 
  明治を迎えた亀岡城は、天守閣が解体され、城門などは市内の桂林寺や小学校に残っています。
 

 
最初、藩の名前が亀山と呼ばれていたのですが、三重県の亀山と紛わらしいので明治二年に「亀岡」と改名しました。

天正三年(1575)、織田信長の丹波平定で、明智光秀が大将になって西の丹波にある八上城主・波多野氏を攻めました。
その功績が認められて、光秀にこの亀山の地が与えられました。 光秀は亀山に入ると元の荒塚城を拡張して付近の社寺を破却し、その木材と石材を運び城を改修し、また地元への政事にも力を注いだと言われています。

しかし、光秀は中国への出陣要請の鉾先を本能寺に変え、織田信長を討ったことから天下の逆臣と汚名をきせられてしまうのです。 この亀岡においては秀吉による山崎で討たれ果てた後も評判は高く、民衆はその霊を祭祀(さいし)していたといわれています。

光秀の後は、羽柴秀勝・小早川秀秋が入り、秀秋の時代には三層の天守を五層に改修しています。 その後は、石田三成・前田玄以などの管理するところとなりました。

関ヶ原合戦後は、北条氏が入っていましたが、慶長一四年(1609)、岡部長盛が入城して藩として新たに立て、松平氏が入って明治を迎えています。

『参考文献を参照』

 

  
  「亀岡城 鯱瓦」

亀岡城の天守家棟にあった鯱瓦は、明治の廃城によって京都市の森川氏に払い下げられたのですが、その後京都府医学校(現京都府立医大)の新築の際に寄贈されました。

現在も医大に収蔵されています。(これはブロンズ像です)
 
城の北側の水堀
  「城の北側の水堀」

暖かい日には、散歩や釣りを楽しんでいるのでしょうね。

釣り竿でも持って、少しのんびりと城跡探索をしたい気持ちになりました。
 

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