丸岡城
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京都府亀岡市余部町
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JR山陰本線の亀岡駅、西へ進むと曽我谷川、常磐橋を渡ると街中には丸岡城(まるおか)がありました。
2009年2月、京都は亀岡。 光秀の丹波攻め、ここも辛い話だね。
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街中をゆっくり進む、西岸寺には碑が見える。
でも車が置けない、三度ぐらい見ながら通り過ぎるよ。
亀岡城の1kmほど西、別名は余部城とも言う、この辺りに天守閣があったんだ。
足利氏満の四男・福井満貞六代の後胤である福井氏のお城だね。 |
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この地は、古城と呼ばれる小高い平地で丸岡城(余部城)の城跡です。
現在でも「古城」・「古城浦」・「政所」などの地名、城跡周辺に寺院などの跡地が点在し、「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」・「庚申堂跡」・城の東麓に「元西岸寺」が残ります。
丸岡城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のとき、東軍の軍事的拠点としてです。
戦国時代にはいると、天正年間(1573-92)、八上の波多野氏が丹波をほぼ手中にし、その傘下にあった福井因幡守貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われました。
しかし、天正6年6月3日、信長の命を受けて丹波に進攻した光秀の軍勢が、宇津根・雑水川・安行山の三方から丸岡城を攻め、落城しています。
さらに勢いに乗じた光秀は、八上の城も攻め落として丹波を手中にし、荒塚山に亀山城を築きました。
丸岡城の大手門は、この坂道あたりで、天守閣は西岸寺あたりとされています。
『現地案内を参照』
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光秀の包囲軍に対して、城中の福井方五十余人は、本丸の門外で討死。
貞政も本丸の持仏堂において、一族郎党三百余人と共に枕を並べて自害するのです。
光秀は好きだけど、信長の命令の丹波攻め、ますます辛い話だよね。 |
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