「安寿と厨子王の話」
康保4年(967)の平安時代、平将門の子孫である陸奥国(青森県)の判官平政氏の娘は、家臣・村岡重頼の妻となり、弟の政道には2人の子供がいました。
この2人が安寿と厨子王です。
父・政道は村岡重頼に殺され、安寿と厨子王も母や乳母とともに追放されて旅に出るのです。 (父は無実の罪で九州へ流され、父に会いに九州へ旅をした説もあります)
直江の浦(新潟県)で山岡太夫にだまされ、別々の舟に乗せられた母と乳母は佐渡へ、子の二人は丹後由良の山椒太夫へ売られました。
安寿は浜で冷たくつらい塩を汲み、厨子王は由良ケ岳で薪作りの日々、その上きびしい仕置きも受けていました。
二人はついに由良から別々に逃げることを決心、安寿は由良川を越え、厨子王は山越えで逃げるのです。
しかし、安寿は疲れ果て自ら入水し命果てました。
橋立の延命寺に逃げ込んだ厨子王は、親智和尚と一緒に京へ上り、藤原公季のもとで文武に励みます。
そして厨子王は平政隆と名のり、塩谷城(福島県いわき市)の村岡重頼を討ち、のちに丹後の国守となるのです。
『参考文献を参照』
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