淀 城
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京都府伏見区淀本町
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名神高速を京都方面へ、天王山トンネルを抜けて「大山崎IC」から171号線を北上します。
「勝竜寺交差点」から東の204号線へ、桂川を渡り「納所交差点」から13号線を南へ進むと、東側には淀城(よど)が見えます。
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この地に2つのお城がある、もう一つが北にある淀古城。
淀古城には秀吉の側室・淀君が鶴松を出産するために入ります。
その淀古城は伏見城の資材になるのです。 |
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徳川二代将軍・秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要衝であるこの淀の地に、松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工しました。
寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次には、この城を宿所としています。
寛永10年(1633)、国替えにより、永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城していますが、享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正和が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城はいn稲葉氏十万二千石の居城になりました。
江戸時代の淀城は、周囲に二重三重の濠をめぐらし、直径8mもある水車が、城の西南と北の二ヵ所に取り付けられていました。
昭和62年、夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ、大小の礎石を含む石積が発見されました。
これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であろうと考えられています。 宝歴6年(1756)、雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるとものであります。
なお、淀君ゆかりの淀城は、現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500mの納所にあったと推定されています。
『現地案内を参照』
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「天守台」
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最初は伏見城から天守が移される予定で、天守台もその大きさで築いた。
でも、実際は二条城から天守閣が移され、少し小さめになったらしいよ。
昭和の発掘調査、ここには五層の天守閣があり、宝暦六年(1756)の雷で炎上したとある。 |
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「南の堀」
南の市場から見ている、大阪城の縄張りを参考にして造られたらしいよ。
周囲は三重の濠をめぐらせ、南と北には直径8mの水車が2つ取り付き、水をくみ上げていたんだ。 |
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「北の石垣」
東の商店街を抜け、京阪本線・淀駅を通り、北側から入るよ。
浅井長政と信長の妹・お市との間に生まれ、のち秀吉の側室になった淀君。
古城は、秀吉が世を去るお城・伏見城の資材になった。
その伏見城の天守閣、ついに帰ってこれなかったんだね。 |
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