淀古城
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京都府伏見区納所北城堀
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名神高速を京都方面へ、天王山トンネルを抜けて「大山崎IC」から171号線を北上します。
「勝竜寺交差点」から東の204号線へ、桂川を渡り「納所交差点」から13号線を少し北へ進みます。
200mほどの西側街中には、淀古城(よどこじょう)がありました。
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初めて知った、京都から流れる宇治川、木津川、桂川の3つは、ここで1つになって淀川になるんだ。
そして南にある淀城、今まで秀吉の淀君のお城と思っていた。
でも淀古城の方だったんだ。
ここで淀君は秀吉の子を出産する、その子は鶴松、でも幼くして世を去るんだね。 |
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文明十年(1478)、室町幕府の三官領の畠山政長は、畠山義就に備えるため守護所をこの淀古城に移し、家臣の神保与三左衛門に守らせました。
文明二年(1470)、「応仁の乱」で細川勝元に味方し、椋橋城にて西軍に備えた薬師寺元長は、その功績で摂津守護代につくのですが、子・元一が淀古城において細川政元に叛旗を翻します。
そして政元は薬師寺元一の弟・長忠に元一を討たせました。
永禄二年(1559)、近畿を掌握した三好長慶は細川氏綱を淀古城に置いて、京都の足利義輝を牽制しました。
氏綱が世を去ると、長慶の養子となった義継が守るのですが、この頃から重臣の松永久秀や三好三人衆(三好長逸・三 好政康・岩成友通)が勢力を持ち、勝竜寺城と共に淀古城は三好三人衆に奪われ、三好長逸の臣・金子氏が入りました。
永禄十一年(1568)、信長が京都に入ると、淀古城は織田勢により落城しています。
そして天正十年(1582)、「本能寺の変」の後、秀吉の側室・淀君が入るのです。
『参考文献を参照』
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「妙教寺」
ここのお寺に、お城の碑があるよ。
南側は納所小学校、その間には桂川につながる深い水路がある。
淀古城の石碑、見ると「戊辰役砲弾貫通跡」とも刻まれているよ。
慶応四年(1868)、旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽伏見戦が勃発した。 |
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旧幕府軍は慶喜の側近である淀藩主・稲葉正邦が守る淀古城に入った。
そしてここが激戦の地となり、その時砲弾が本堂を貫通した跡とある。
小学校の西、唄が聞こえる公民館、ここにも戊辰役戦場跡とある。
いよいよ京都、マップで調べておいてね、どんな探索シリーズになるのかな。
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