弓木城
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京都府与謝郡与謝野町字弓木
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舞鶴自動車道、「綾部JC」から京都縦貫自動車道に乗り換えて、最終の「宮津天橋立IC」から宮津の街へ入ります。
国道176号線を西へ、JR「岩滝口駅」辺りから178号線方面へ曲がり、岩滝町役場へ向かいます。 役場の西側の城山公園が弓木城(ゆみのき)です。
2005年6月、日本海探索はまだまだ続く。 傘はいらない弓木の小雨、久しぶりに清張も登場しているよ。
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天文十二年(1543)、種子島に鉄砲伝来、そして弓木城の稲富氏は鉄砲の話に関係があるんだよ。
稲富直家は後に一夢と称し、鉄砲の稲富流(一夢流)を伝授した人物。
松本清張の「火の縄」は、直家の生涯を描いた小説。 大抵は読んでるけど、本棚には無いみたいだよ。 |
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室町時代の後期、最初山田姓を名乗った稲富氏は弓木城主になってから稲富と改め、二代目・直時の頃に丹後守護の一色氏の家臣となりました。
天正六年(1578)、信長の命令で細川藤孝(幽斎)が丹後に侵攻し、明智光秀の計らいで一色義有(義俊や満信の説あり)は八幡山城から弓木城へ移され、細川氏が八幡山城に入り、のち田辺城に移っています。
天正十年(1582)、弓木城に入った一色義有は細川氏に異心をいだいているとして、弓木城に籠もり対抗するのですが、まもなく細川氏に滅ぼされてしまうのです。
弓木城の滅亡後、鉄砲の名手である四代・稲富直家は細川忠興に仕えていました。
慶長五年(1600)、関ケ原の合戦の頃、忠興の大坂屋敷でガラシャ夫人が命を絶った時、直家は大坂を離れて尾張の松平忠吉に身を寄せました。
晩年は尾張徳川家の義直(家康の第九子)に仕え、家康や秀忠にも鉄砲の技法を教えたと云われています。
『参考文献を参照』
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正直に書きます、播但自動車で和田山へ、夜久野町から山中を通っている時、道にシカがいました。
見つめ合いが終わると、霧の大江山、やっと着きました。
西側には岩滝小学校、道沿いの駐車場は満杯、どうにか止めれたよ。
お城の裏側から鳥居をくぐり、石段を上がると土塁。 |
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「水無月」
下から見てる、本丸には水無月神社がある。
もちろん水無月は陰暦で六月のこと、水がいっぱい有る月だね。
案内では弓道場やテニスコートもある運動公園らしい。
帰りの半分降りた所、心ゆるがす別の階段がある、さすがに運動できる公園、うまくできてると感心。 |
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「副郭」の案内がある郭、宮津湾を見ているよ、日本三景の天橋立が見えるらしい。
写真をよく見ると、湾の向こう岸に天橋立がある、よかった。
本当に降りて駐車場へ戻る、車が一台ポツン。
わずかな時間、皆はどこへ消えたのかな、シカ見た目も、丸くなってしまったよ。 |
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