660余年の昔、南北朝時代といわれる時代がしばらくつづきました。 五ヵ所城は、南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城ともいわれ、土地の者は愛洲さんと呼んで、大切にしてきました。
愛洲氏は、古くからここに城をかまえ、南北朝の頃には、国司・北畠氏と共に、伊勢地方に勢力を張り、熊野水軍と結んで、田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。 功により、伊勢の守護職となり所領を受けて、神宮のうしろだてとなりました。
一族は長くこの地を本拠地として、威を振るいましたが、天正4年(1576)、北畠氏(織田信雄)の軍に攻められて滅亡します。
現在、城跡と丘の南面の、居館跡や塔頭(墓所)が残り、中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので、昭和十三年県史跡の指定をうけました。
愛洲移香斎久忠(1452-1528)は、530余年前、この地に生まれ、成人として九州鵜戸の岩屋にこもり、剣の奥義をさとって、愛洲影流をひらき、天下に広めました。
日向守愛洲太郎左衛門久忠と名乗り、移香斎と号として所領をうけました。
愛洲影流は、上泉伊勢守信綱により、新陰流となり、柳生石舟斎の柳生新陰流をはじめ二百余流の源流となり、移香斎は剣祖としてあおがれています。
『現地案内を参照』
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