戦国の世に木造具政が敏太神社の裏山に築いた砦です。 木造具政は伊勢の国司八代北畠具教の弟で、養子として木造家に入り、のち戸木に隠居をしたので、戸木御所と呼ばれていました。
天正12年(1584)、織田上総介清生を敵にまわして、木戸城で籠城するのですが、宮山城は戸木城の北を守る要害の位置にあり、敵の動勢を見渡す上からも必要な城でした。
そのため織田勢は風早池の西に陣をしき、この城を攻めました。 木造方の柘植彦次郎、田中道京海津河原田の諸氏は、よく防ぎ戦い西の谷間は激戦となりました。
しかし、織田勢の家所常刀に押され、遂に同年5月、木造方は城を捨てて戸木城に引き上げました。 その後、この城は織田勢の本陣となり、同年秋停戦とともに、廃止されました。
現在、城跡は稲荷神社がまつられていますが、その周囲に土塁や空濠が残り当時の面影を今に伝えています。
『現地案内を参照』
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