城は、北へ突き出た標高110m余りの丘陵端部に築造されており、東裾と北裾とを阪内川と矢津川が洗い、西側と南側には深く谷が入って自然に要害の地を形成しています。
応永22年(1415)、北畠満雅が阿坂城で室町幕府に反旗をひるがえしたとき、築城して弟・顕雅を篭城させたと云われています。 以後、顕雅の子孫が居城し、大河内御所を称しています。
永禄12年(1569)、信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司・北畠具教(とものり)は本拠を多気(一志郡美杉村)より、この城に移し、補強して信長の軍勢を迎えうちました。
8月末より、一か月余りも戦いは続きましたが、北畠軍は利あらず、信長の二男・信雄に北畠の家督を譲る条件で信長の軍門に降り、具教は城を退却しました。
天正4年(1576)、信雄は南伊勢を統治する拠点を、田丸城(度会郡玉城町)に移し、廃城としました。
現在、本丸跡・二の丸跡・西の丸跡と呼ぶ台状地や平坦な馬場跡、土塁や堀切りが城のおもかげを残すにすぎません。
『現地案内を参照』
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