保元年間(1156-59)、橘氏がこの地に居館を築いたのが始まりです。
永正年間(1504-21)、橘宗忠の時、伊勢国司・北畠材親が鳥羽を攻め、宗忠は降伏しています。
波切城の九鬼嘉隆は、志摩を手中に入れようとしたのですが、志摩七島党の反撃により安濃津(津)に逃れました。
永禄十一年(1568)、嘉隆は信長の力を借りて志摩に戻り、志摩地頭十三人衆の内、浦豊後の浦衆、荒島左門の安楽島衆、小浜民部の小浜衆を落としました。
元亀元年(1570)には、答志・和具・的矢・越賀などの諸豪族も支配下に入れています。
橘宗忠は小浜城主・小浜民部と共に嘉隆に対抗するのですが、娘を人質として降伏し、嘉隆は妻として宗忠の所領を継ぐのです。
のち嘉隆は、信長に従い各地で転戦、本能寺の後は秀吉に従い小田原征伐・四国九州攻めに参加、朝鮮の役にも参戦するのです。
『参考文献を参照』
|