大和盆地の村落は鎌倉時代から室町時代にかけ、時には不当・苛酷な支配者からの要求に反発したり、地方豪族等の争いを避けるため、次第に自衛の手段を講じ、百姓仕事の傍ら武装体制をとるようになりました。
彼らは、全村民協力して、村落の周辺に二間幅位の溝を掘り、内側に土居を盛り上げて竹木を植え、外部からの侵入を防ぎます。
こうした環濠は、他村にも多く見られたが、江戸時代の平和な世代以後は土居を崩し、濠は用水池とされましたが、近年に入っては吉野導水の普及や自動車交通のために埋められ、古姿を失いつつあります。
当町では、森村本家邸北側(石塁と渡橋)と森村分家邸西側(水濠と竹林)にその姿を残しています。
『現地案内を参照』
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