文安元年(1444)の頃、大和は北の筒井氏、南は越智氏と二分し対立していました。
筒井方には順永の兄・成身院光宜が勢力を持ち、越智氏には古市胤仙・豊田頼英が付いてます。
大和の支配を目指す筒井氏に対抗して、経覚も越智方に付いて陣所としたのが、この鬼薗山です。
文安二年(1445)、鬼薗山城は筒井・成身院方に攻められて、自ら城を焼きました。
のちお城は、成身院光宜が城主となり、康正元年(1455)には越智方が入ります。
長禄二年(1458)、お城の必要性はなくなり廃城となりました。
『参考文献を参照』
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