大和の国、鎌倉時代は南都七大寺の一つ興福寺が守護として治めていました。
戦国時代に入ると、興福寺に属していた筒井順興は越智氏を討ち滅ぼし、子・順昭も信貴山城を本拠にし勢力を拡大していきます。
永禄十一年(1568)、順昭の子・順慶が跡を継ぐのですが、幼少のため三好長慶の家臣・松永久秀が大和に侵入してきます。 筒井城を追われた順慶は郡山城を死守、松永方はこれを落とすために四方に付城を築き包囲します。
元亀二年(1571)、順慶は辰市城(奈良市)を築き、これを久秀が攻めている時に、筒井氏の主力軍を郡山に集結させ、松永軍を打ち破ります。(辰市城合戦)
天正五年(1577)、久秀は信長に反旗を翻し滅亡、順慶は筒井城の拡張工事を始めたのですが、地形の不利から筒井城を残念し、本城としたのが郡山城です。
天正十年(1582)、本能寺の変で光秀は、順慶の出陣を求めたのですが、順慶は籠城したまま動かず、秀吉のもとに参じて大和一国を安堵され、翌年には天守を完成させています。
しかし、二年後に順慶は世を去り、小泉氏から養子に入った定次が跡を継ぐのですが、定次も伊賀国へ転封を命じられ、郡山城の筒井氏時代は終わります。 この時、筒井氏の家臣・島左近も追放されているのです。
秀吉の弟・秀長が入り、城郭と城下町の整備を行い、のち豊臣政権五奉行の増田長盛が入ります。
慶長五年(1600)、関ケ原で西軍に付いた増田氏は改易、代わって大久保長安・山口駿河守・筒井主殿が在番し、大阪夏の陣ののちは水野勝成、松平氏、本多氏、柳沢氏と続いていくのです。
『参考文献を参照』
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