平安時代、この地方が平田庄という大庄園であったころ、その中心に高田郷とよばれた集落がありました。
ここは北は奈良、南は吉野また東西には初瀬街道により、伊勢や河内に結ばれた交通や要衝でありました。
それゆえ、高田発祥の地として本郷と名づけられたのである。
この附近には、領家興福寺の別院伊福寺をはじめ、天神社大日堂・八幡宮常光寺唯心寺などの社寺や大和国家の城下町として、油・米・飴・鍋釜の座商人が集まり、後の商工の町、高田の母体となりました。
近世、幕藩体制下では、村内各区に十二の株庄屋があったが、本郷方が大庄屋として村政をあずかっていました。
そしてこの地は、その屋敷跡に当たります。 いま新しい住居表示により、多くの町名が生まれたが本郷の名は昔のままそのおもかげを伝えています。
『現地案内を参照』
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