足守陣屋
岡山県岡山市足守

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  岡山自動車道、「岡山総社」で降ります。  国道180号線を東へ、「小山交差点」から国道429号線を北に走ります。 4kmほどで足守農協前を過ぎ、二股の道を左に入ると足守川の橋があります。 この橋を渡ったところが足守陣屋(あしもり)になっています。

現在残る足守の街並は、関ヶ原の戦い後、秀吉の北政所(ねね)の実兄・木下家定が姫路城から移封されて、ここ足守藩を治めたことに始まっています。

 
  足守川を渡って街並の最初にあります。

この日、足守陣屋はサンディ・ウォーキングのコースとなっていた為、冠山城あたりで300人ぐらいの団体が足守陣屋を目指して歩いていました。

先回りをして、やっと駐車したと同時に、陣屋の街並みは人波状態で、写真には写っていないけど、周りに100人ぐらいいるよ。
 

 


平氏出身の杉原家定は、信長の家臣の時に、妹の「ねね」が木下藤吉郎(のちの秀吉)に嫁ぎました。 秀吉が天下人になってからは「ねね」は「北政所」に、そして家定も木下姓を名乗ることを許されました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の時、姫路城主であった木下家定は北政所の意向により西軍・東軍のどちらにも付きませんでした。 その翌年に、家定は播磨姫路より移封されて初代・足守藩主になりました。

慶長13年に家定が没した後は、ねねの指示で長男・勝俊が継いだのですが、家康の怒りに触れて廃藩となりました。
慶長15年、浅野氏が入るのですが、これも和歌山城に移され、のち家定の次男・木下利定が大坂の陣で戦功を立て足守藩は再興されました。 この木下家定の五男が関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったとされる小早川秀秋なのです。

「足守歴史庭園」に三人の説明がありました。

「木下利玄」
明治19年に生まれ、白樺派の歌人として知られています。 牡丹の歌や曼珠紗華など自然の歌が多く残されています。
 「牡丹花は咲き定まりて静かなり、花の占めたる位置のたしかさ」

「緒方洪庵」
文化7年(1810)に生まれ、大坂・江戸・長崎で蘭学を学び、西洋医学に励みました。 29歳で大坂に「適塾」を開き多くの人材育成に心血をそそぎ、日本ではじめて種痘を行った人です。

「北政所(ねね)」
足守藩祖、杉原家定の妹・北政所は尾張国朝日村で生まれ14歳で秀吉に嫁ぎました。 兄・家定は秀吉から木下姓を許され、関ヶ原の翌年に足守に移りました。 秀吉と北政所の位牌は、豊臣秀頼なきあと木下家菩提寺・大光寺に移されました。

『参考文献と現地案内を参照』

 

  
旧足守藩侍屋敷跡
  「旧足守藩侍屋敷跡」

江戸時代中期の武家屋敷で、長屋門・母屋・御成門・内蔵・土蔵などが完全な形で残っています。

畳、襖、障子の部屋に見惚れました、よかったです。 皆さまは実物を見るまでのお楽しみですね。
 
見所です
  「見所です」(写真の場所じゃないよ)

「近水園(おみずえん)」
 吟風閣は京都の仙洞御所の残材を拝領して建てたものです。

「木下利玄の生家」「緒方洪庵の生家」「大光寺」など沢山あるよ。

美味しい店、土産の店、一日中ゆっくりと歩いてみたいよね。

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