八浜城
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岡山県玉野市八浜町
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岡山ブルーライン、「君津IC」で岡山バイパス(2号線)を西へ、岡山市の「倉田交差点」から県道45号線を南へ曲がり、「児島湾大橋」で素晴らしい湾の景色を見ながら、45号線を6kmほど西へ走ります。
2003年8月、八浜は世界で初めて空を飛んだ日本人が生まれた街。 その児島湾に面した標高53m両児山には八浜城(はちはま)があります。
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両児山城(ふたごやま)ともいわれ、西から見ると2つの山が見えます。
南側には城跡、北側の山には神社があるよ。 |
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天正八年(1580)、備前の宇喜多直家は秀吉の傘下となり、毛利氏による備前南部の児島への攻撃に備えるために、常山城には富川平右衛門、麦飯山城には弟・浮田忠家に守らせました。
一方、毛利氏側の小早川隆景は、備中猿掛城主のち矢掛茶臼山城主である毛利元就の四男・穂田元清を児島に進撃させました。 間もなく麦飯山城は毛利方の手に落ち、宇喜多直家は忠家の子・基家に八浜城を築かせ応戦体制を整えました。
天正九年(1581)、麦飯山城のあたりで足軽同士の小競り合いが起こり、それから本格的な合戦が始まりました。 宇喜多基家は鉄砲の弾にあたって落馬し、そこへ銃弾を浴び討死するのです。
これで一時は宇喜多勢の総崩れと思われたのですが、能勢又五郎・国富源右衛門・宍甘太郎兵衛・馬場重介・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・栗井三郎兵衛という八浜の七本槍と称された七人の活躍で、形勢は変わり毛利勢は退いていくのです。
その後、秀吉の備中高松城の水攻めの時、毛利方と和議を結んだ後に廃城となりました。
『参考文献を参照』
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「神社の鳥居」
国道沿いには「玉野市歴史街道案内図」があって、「八浜街並コース」「大崎歴史コース」「常山城コース」の説明図があります。
見たいコースが案内図にあって、本当にうれしい所です。
でも八浜へは二回目、見たかった街並を見るのを忘れていたからね。 |
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これは1回目に来た夏の頃、芝生がとてもきれいだよ。
ころんで昼寝でもしたいよね。 |
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本丸の東側には大きな堀、アスレチック状の橋があって小さな子供も喜びそうな所だよ。 |
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「快神社(こころよし)」
昔、八浜の海岸に大きな材木が流れつき、その木の中から妙なる音楽が聞こえたので、割ってみると衣冠束帯の老翁が現れました。
それを村人が祀ったのが快さまと伝わっています。
慶長の頃には、藩主池田公の世継ぎ誕生の祈願が行われ、生まれたのが光政公です。
享保の頃には、政継公の疱瘡の平癒祈願も行われ、遠くからも参拝者が絶えなかったそうです。 |
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「櫻屋幸吉橋」
実は二回目は、この橋を見るために八浜にやってきました。
それは、ライト兄弟より百年以上も前に空を飛んだ日本人は八浜の人だったと知ったからだよ。
日本人もすごい人がいるんだよ、感激だよ。 |
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八浜コースの「与太郎様」を見るのを忘れてしまった。 八浜合戦で足を負傷し、若くして討死した宇喜多基家を祀っている「足腰の神様」だよ。
天正九年、この八浜合戦を最後に宇喜多直家は燃え尽きた生涯を終えます。
湾の向こうに見えるのが直家の岡山城がある方向、岡山探索で直家のことを沢山教えてくれたよ。 |
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