萩丸城
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岡山県久米郡旭町打木沢
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中国自動車道、「院庄IC」で降りてから南の国道429号線を西南へ走ります。 久米町から旭町に入った所で341号線を北へ、6kmほどで岡山県総合畜産センターの「まきばの館」があります。
この館の広場には、関東の足利氏と関係がある萩丸城(はぎまる)があります。
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やって来たのは2004年の9月、まだ緑があった頃だよ。
この山のてっぺんは標高520m、ずいぶん山を登ってきたんだね。
実はハーブやラベンダーがいっぱい咲く季節にもう一度来たかったんだ。
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室町幕府の足利家には将軍家と鎌倉公方家の2つの系列がありました。 つまり尊氏の子・義詮が将軍家を継ぎ、兄弟の基氏が関東公方家となりました。
鎌倉公方家は基氏・氏満・満兼・持氏と続き、この持氏が将軍家と対立していくのです。
正長元年(1428)、四代将軍・義持と五代将軍・義量が早くして世を去った時、持氏は将軍の座を狙うのです。
しかし石清水八幡宮でくじ引きが行われ、次の将軍には将軍家の義教が選ばれたのです。 この義教は嘉吉の乱で播磨の赤松満祐に首をとられた人です。
その後、義教と持氏の仲はますます悪くなり、持氏は子の名前に「義教」の一字をとって「義久」と付けたのです。 本来なら名前の下の漢字、「教」を賜るのが慣わしのはずが、上の「義」の字をつけたのです。
永享十年(1438)、これを機に義教は関東の今川氏、武田氏、小笠原氏に持氏追討を命じ、ついに持氏は鎌倉の永安寺で自害するのです。(永享の乱)
その持氏の子・成氏の家臣である佐和四郎国高が関東から赤松氏を頼り、この地に移って築いたのが萩丸城です。
永正十七年(1520)、赤松家を叛いて備前の三石城に入った浦上村宗は、美作にある赤松方の岩屋城を攻撃した時、支城である萩丸城も落城、佐和氏は滅亡するのです。
『参考文献を参照』
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「展望台」
「まきばの館」では馬に乗ったり、牛乳をしぼったり、アスレチックやバーべキュウもできる。
家族連れは、過ぎ去る夏の最後までしぼり遊んでいるよ。
階段を登れは、あっという間に展望台。 ここが城跡。 |
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「まきばの館」
展望台からの眺め、ここへはあまり来ないみたいだね。
頂上は平らでいかにも郭、でも山の半分ぐらいは私有地だから入れないよ。 |
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「佐和氏の供養塔」
佐和氏の墓だと思うけど、正面から見れない所にある。
実は鎌倉は一度も行ったことがない。 ましてや東京タワーや国会、ディズニーも知らないよ、珍しいかな。
でも関東の人も、会話の最後に落ちを付けないと電車から降りれない関西へ来てほしいよね。
(これは冗談ではない、話に落ちがないと、寝るまですっきりしないのが関西) |
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「仏淵」
途中の道沿い、ここで拝めば耳のあるウナギが雨を降らしたらしい。
帰りに少し南東にある一ノ瀬城を北側の429号線側から行こうとして、山道の車一台しか通れない道で落ちそうになった。
作東町の福城でも決死の山道バック走行、最近岡山の山道バック走行が多いんだよ。 |
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「旭川」
萩丸城から南へ走る、ここは旭川なんだね。
旭川、北には勝山の高田城、ずーと南は宇喜多直家の岡山城へとつながっているんだ。
あいかわらず吉井川、旭川、高梁川はきれいだよ。
しかし、このページの落ちができない、どうしたら終われるのかな。 |
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