神楽尾城
岡山県津山市上田邑

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  中国自動車道、「津山IC]で降りてから、国道53号線を西へ走ります。 津山駅の真北にある「船頭町交差点」で北側の394号線に入り、津山城を越えてから「椿高下交差点」を西へ、すぐ68号線を北へ曲がります。

1.5kmほどで「中国自動車道」を越えると、「神楽尾公園」への道標があります。 この公園の北側には標高308m(比高170m)の山頂に神楽尾城(かぐらお)があります。

宇喜多勢に落とされた神楽尾山、緑の中で昔を夢見てみたい、2004年4月の風景は探索さえも忘れさせてくれる城跡なのです。

 
  神楽尾の名前は、山頂の天剣神社(あまつるぎ)から、夜々神楽ばやしが響いていたという伝説からつけられました。

城跡は保存協力会の方によって、きれいに整備されています。
 

 


美作国のほぼ中央にある標高308mの神楽尾山に築かれた大規模な山城です。

「神楽尾」の名前のおこりは、「作陽詩」に「轟昔(ずっと昔)山上に天劔神社あり。 夜々神楽の響四方に聞こゆ。 之を求むるに人なし。 識者曰く。 諸神来たり集いて、之を奏すと。 遂に山名となす」と書かれています。

太平記にもでてくる神楽尾城では、室町時代、山名氏と赤松氏が戦いをくりひろげましたが、その後、永禄九年(1566)毛利元就が尼子義久をやぶると、神楽尾城は毛利方のだいじな城として大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が守っていました。

この神楽尾城は、すぐれた縄張りの三つの大きな曲輪からできており、多くの空堀や土塁でまもられた城でしたが、宇喜多方の荒神山城主・花房助兵衛職秀との戦いにまけて落城したといわれています。

山頂からの360度のながめは大変すばらしく「四周展望の城」と呼ばれています。

『現地案内を参照』

 

  
神楽尾公園
  「神楽尾公園」

ここに車を置いて、左は公園、お城は右側へと歩きます。 「原爆慰霊碑」を過ぎて、そのまま道を進みます。
 
神楽尾城へ
  「神楽尾城へ」

本丸まで625m、道はすごく整備されているから、公園に来た時は神楽尾城へも登ってね。
 

  
二の曲輪
  「二の曲輪」

道標から200mほどで二の曲輪、道の両側が高くなっています。

ここから更に奥の右手に「泥田堀」が道なりに続いているよ。

同じ道で帰るならいいけど、三の曲輪から周回して公園まで帰る時は、もう見るチャンスはないよ。 ということで「泥田堀」を見るのを忘れていました。
 
三の曲輪の堀切
  「三の曲輪の堀切」

「泥田堀」を過ぎると丁度、城の中心にある「馬場」という所に案内板があります。

北へ行けば「本丸」、南が「三の曲輪」だよ。 この堀切は三の曲輪から更に南へ降りた所だよ。

そのまま南の「石仏峠」から公園まで帰る途中、峠から降りた辺りが屋敷跡だったのかな、地面が平らな所が段々になっていたよ。
 

  
竪堀
  「竪堀」

本丸から北の面を降りてみました。

ここまで降りる時は気をつけてね、お気楽ムードで降りると、落ちていくよ。

下には2つの平らな曲輪がある、そこに数本の竪堀。 さすがにここへは誰も来ないね、探索気分になれるよ。
 
三角点
  「三角点」

ここには「三等三角点」の説明がある。

三角点は地球上の位置を正確に知る為の基準になる点らしい。

今まで三角点は山の一番高い点としか思ってなかったけど、地図を作る時の基準にもなるらしいよ。

山には知らない事が沢山あるね。 「標高と疲れ度合い」の関係は分かってきたけど、地図の見方など、もっと勉強しないとね。

ここ一年で分かったこと、比高200m以上の山はしんどい。
 

  
本丸
  「本丸」

ここは東西南北が見渡せる「四周展望の城」。

カメラで熱心に撮影されてる方、草花の話をしている年配の二人、そして公園では子供達がはしゃいでいた。 

毛利氏と宇喜多氏の戦いの場も、今日だけは「探索」を止めて景色の真ん中で寝ころんでいたいよね。

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