鶴首城
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岡山県高梁市成羽町下原
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岡山自動車道、「岡山総社IC]で降りてから高梁川沿いの国道180号線を北へ走ります。 高梁市の「落合橋東交差点」を西へ、川を渡ってから国道313号を6kmほどで成羽町へと入ります。
国道沿いの成羽美術館があるところが成羽陣屋(なりわ)、その背後には標高338mの山頂に鶴首城(かくしゅ)があります。
2004年3月も終わり頃、風は陽気を誘ってもよい頃なのに、成羽の雨は涙を誘っているのかな。
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1週間前、成羽町にやってきた。 3月だというのに雪が舞っていた。
高梁川を走る、今日こそは鶴首城に登りたい、緊張する。 |
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天文2年(1533)、三村家親は小田郡美星町からこの成羽に入り、鶴首城を築きました。
永禄2年(1559)、家親は毛利氏の力を借りて、備中の東へと侵攻し、まずは庄為資が守る猿掛城(小田郡・吉備郡)を攻撃しました。 しかし庄氏は尼子氏と結んでいたため完全な勝敗がつかず、子・元祐を庄実近の後継者として猿掛城主になることで和睦をしています。
永禄4年(1561)、今度は庄高資の備中松山城(高梁市)を落とし、鶴首城から本拠を移しました。 そして家親は東の備前、北の美作への侵攻をうかがっていました。
永禄6年(1563)、備前へ兵を進め、須々木行連が守る舟山城、金光宗高の石山城(現岡山城)を攻め、翌年には宇喜多直家の所領へと入っていくのです。
永禄8年(1565)、家親は美作の後藤勝基の三星城(英田郡)を攻めた時、直家が救援に向ったので、その鉾先を三浦貞勝の高田城(真庭郡)へと変えました。 この時、三浦貞勝は妻子を連れて城を脱出、途中で妻子を東へ逃し、自身は西へと進んだのですが、力尽きて新見市の薬師堂で自害しています。
ついに宇喜多直家の家臣・岡剛介が守る龍の口城を奪い、久米南町の下籾の興禅寺で陣を構え、松田氏の金川城(御津郡)への攻撃に備えていました。
永禄9年(1566)、勢力を拡大しすぎた三村家親は、宇喜多直家が興禅寺へ送り込んだ刺客によって暗殺されたのです。
『参考文献を参照』
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この石垣は成羽陣屋跡、今では成羽町美術館になっている。
この道は山麓の太鼓丸を周回する遊歩道、どこかに山頂への道はないのか、やはり見つからない。 |
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「ここに決めた」
雨が降ってきた、時間も過ぎていく。
ここから登ることに決めた、あとは直っすぐ行くしかない。 |
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右左、上も下も、木と草と野バラがふさぐ。
それにすごく急斜面だ。 何かにつかまっていないと落ちる。
一歩前進、身体から野バラをはずす。 木をつかむ、次の一歩をどこにするか捜す。 |
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一時間ぐらいに思えた、木にもたれて休む。
トゲが付いている、見えないとこは、つかんではいけない。
頭がボヤーとしてきた、真下に見える成羽の町に吸い込まれそうだ。 |
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出た、尾根、やった。
ここまで来れば着いたも同じ。 道がある、いったいどこから続いているのだろう、まあいい。 鶴首城は今来た道でいいんだ。
雨も本降り、本丸へ急ごう。 |
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「道沿いの石」
どのあたりだろうか、視界はなし。 道沿の石積み、城は近い。 |
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大きな石で囲まれたところがある。 何があったのだろうか。 |
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着いた、削られた跡。 まずは周囲から。
落ち葉は足首まで隠してしまう。 木をくぐり、枝を掻き分け進む。 |
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「井戸」
裏手、丸く石で囲まれた所がある。 確かに井戸だ、嬉しい。 |
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こんなに苦労をした城、ここに立てた喜びは、感激する以外にない。
天を見上げる、顔に降りそそぐ雨粒、嬉しい。 |
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成羽川の総門橋から写真を撮った。
何かが違う、どうした事だろう。 あの右側の山に行ったのか、いや違う、低い方。
何故、何故。 目の前まで行ってるのに・・・鶴首城。
成羽に風も出てきた。 山がかすむ、タオルで雨をふいた。
今日は帰ろ、涙が出るから早く帰ろう。 |
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