室町時代の末期、天文2年(1533)から元亀元年(1570)までの38年間、備中松山城(高梁市)の城主・荘備中守為資と長男の荘備中守高資の父子が西江原を支配していました。
元亀元年(1570)、川上郡成羽城主・三村備中守家親は毛利氏の援軍を請うて、松山城主・荘備中守高資を討ちました。
この時、毛利氏は備中の国一円を掌握しようと、毛利元清を大将として本郡(後月郡)へ兵を進め、敵を防ぐ要路に位置するこの地に亀迫城(砦のような小さな城)を築きました。
元清は宍戸安芸守を守衛に任命し、その家臣・木村平内と神田六郎兵衛の二人を郡代として常駐させ要害山砦を修理し、逆茂木(敵の進攻を防ぐためにとげのある木の枝を外側に向けた垣)を、南は小田川を渡って木之子の祢屋ケ端(ねやがばな)まで立てめぐらし、軍備を構えました。
亀迫城を拠点として小田郡の中山城、船ケ迫城、奥ノ城をつぎつぎに攻略し、遂に猿掛山城主・穂井田実近(ほいたさねちか)を攻め滅ぼして、猿掛城主となるのです。
慶長5年(1600)、『関ヶ原の合戦』で石田三成、毛利輝元ら西軍は、徳川家康の東軍に惨敗した為、毛利氏は備中など中国地方8ケ国の領地を没収、周防・長門の2国(現山口県)に減封されて、当地方は徳川幕府が支配しました。
このころ、亀迫城は廃城されたと云われています。
『現地案内を参照』
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