金川城
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岡山県岡山市御津町金川
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山陽自動車道、「岡山IC]を降りて国道53号線を北上します。 御津町に入るとくねくねと曲がった旭川と合流します。 3kmほどでJR津山線の金川駅手前を斜め西へ入り、すぐ宇甘川(うかい)の橋を渡ります。
そして目の前の標高223m臥竜山(がりゅうざん)山頂には、松田氏の金川城(かながわ)があります。
2003年7月、夜空を流れる天の川、その光と影が運命を見つめていた、そんな城跡なのです。
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「本丸にある供養塔」
二百年を超す松田氏の盛衰、現在の光がやさしく照らしています。 |
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臥龍山にはじめて砦が築かれた年は明らかではありません。 戦国時代の初め文明十二年(1480)頃、松田左近将監元成が本拠を金川に移して、以来五代約90年にわたって西備前随一の山城として栄えました。
永正六年(1509)、城主元勝は三条実隆より玉松・麓水の二書を贈られ、以後玉松城と命名します。
永禄十一年(1568)七月五日、宇喜多直家に攻められ、城主・元輝嫡子、元賢共に壮烈な戦死を遂げ七日早晩ついに落城しました。
その後、慶長八年(1603)、徳川幕府の一国一城によって廃城となり、落城ここに四百年の星霜を経るのです。
『現地案内を参照』
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「丸太の階段」
登山口は「御津町役場」「七曲神社」「妙覚寺」の3箇所があります。
この丸太は総数1764本で、写真だけで17本ぐらい、この100倍の丸太の階段があったのですね。
歩けど歩けど同じ風景、後ろを振り向くと同じ風景。 ただ木々の隙間から入る光の本数だけは確実に減っていくのです。 |
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「本丸跡の礎石」
かつては松田氏の壮大な屋敷があったところです。
明治から伐採されたことがない木々。 本丸の真ん中に立ち一周見渡す。 無数の葉の光が、真ん中に集ってきます。
来た道は自分が付けた足跡、まだ跡のない落ち葉を奥へと入っていくのです。 |
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「北の丸へ向かう道」
北側への道は丸太がありません。 木が根元から倒れ、道を塞さぎ一人がやっと通れるぐらいの道を奥へ奥へと歩きます。
少しの光が、道の案内をしてくれます。 足を踏み外したら、必ず落ちてしまいます。
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「北の丸の堀切り」
やっと北の端にある堀切りに着きました。 さすがに天神山城と規模を争っただけのものがあります。
落ち葉の厚みはいったい何年分だろう。 何百年分の葉の重なりが洪水のように満ちているのです。 |
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「白水の井戸」
道からはずれたところの木々をかき分け入っていくと、光を吸い込んでいるような大きな穴があります。 たぶん井戸だと思うのですが、暗くてよくわからないです。
あまり近づくと落ち葉と一緒にすべりそう。 唾を飲み、真っ直ぐに構えてのシャッターです。 ボヤけてしまいました。
井戸は他に「天主の井戸」「杉の木の井戸」がありました。 |
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「道林寺丸の石垣」
本丸から西の「三の丸」のところです。
七夕の夜、この場所に追手が潜んでいたのですね。 |
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「七曲神社」
縦30cm、横100cmのヒノキの板6枚に吉備津彦命、平清盛、源義経、足利尊氏といった古代から室町時代の武将36人が、狩野十兵衛によって描かれています。
寛文13年(1673)、岡山藩家老の日置忠明が、武運長久を願って納めたものです。
十月の「はなよ」といわれる獅子舞も見てみたいです。 |
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「妙覚寺側の登山口」
この妙覚寺には「花鳥図屏風」「世界図屏風」の文化財、「織田信長書状」といった古文書があります。
そして東には江戸時代末期の医師の「難波抱節宅跡」があります。
京都で産科、内科、外科を学び、金川で開業しました。 嘉永三年(1850)年に足守(岡山市)で緒方洪庵から種痘法を学び、金川で種痘を行い、たくさんの子供を天然痘から守りました。
安政六年(1859)年にコレラが流行した時、治療にあたりましたが、自分にもうつり、亡くなったそうです。
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「宇甘川の鉄橋」
光と影から抜け出た瞬間、この風景で心を静め、一人播磨へと帰るのでした。 もうすぐ七月。 |
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