冠山城
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岡山県岡山市下足守
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岡山自動車道、「岡山総社」から、国道180号線を東へ、「小山交差点」から国道429号線を北に走り、3kmほどの「龍泉寺口交差点」を東に入ると小高い丘があります。 この標高40mの丘が冠山城(かんむりやま)です。
天正十年(1582)六月、「本能寺の変」、天下への夢は幻となった2ヶ月前の同じ時、ここ冠山城では羽柴秀吉の「備中高松城水攻め」の前哨戦を行っていたのです。
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足守川をはさんで毛利氏と織田氏は争い、ここ冠山城は毛利氏の備中における「境目七城」の一つだったのです。
七城とは北から宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城のことです。 |
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天正十年四月十七日、冠山城は織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まりました。
守りは城主・林三郎左衛門、弥屋七郎兵衛、松田左衛門、鳥越左衛門、三村三郎左衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、弥屋興七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、弥屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦います。
城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐみます。
四月二十五日不幸にして城内より出火し、火は燃え広がり城中大混乱となり、城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決したのです。
竹井将監、鳥越左衛門、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は自刃或いは壮烈な討死を遂げました。
加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど、激戦の状況が戦史に詳しく伝えられているのです。
「現地案内を参照」
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「冠山」
国道429号線から見た冠山。 登山口は東(右側)にあります。
こんなにかわいい山を2万人で囲んだんだよね。 |
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「登山口」
車を少し遠くに置いて、カメラ一つで入ります。
この前に岡山の富山城を走って登ったせいか、足がカクカクするよ。 |
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「二の丸跡」
麓には「溜め井戸」みたいな所、そして「三の丸跡」「二の丸跡」があります。
竹がいっぱい、国道が近いのに静かです。 |
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「本丸の下」
加藤清正の一番乗りの話。
早島城主・荒武者竹井将監は加藤清正との一騎打ちに敗れて戦死しました。 竹井将監の五輪塔が早島にあります、行きたいね。
加藤清正は柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」でも一番槍だったのかな、あちらは「七本槍」の一人だったのかな。 ちょっとややこしいね。
でも、熊本城主にまでなった人がここに来ていたんだよ、不思議なものだよね。 |
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「慰霊碑」
本丸には冠山合戦での戦死者慰霊碑と供養塔があります。
落ち葉がいっぱい、自分の歩いた足音だけの空間、どきどきするよ。
天正10年4月23日とあります。 6月が本能寺の変、たった2ヶ月の差だよね。 歴史の「もし」と「時の差」は不思議なものだよね。
光秀も山崎で戦死したことが通説だけど、徳川幕府に力を誇った「天海僧正」が光秀だという説もあるよ。
(この説は興味あるから、また書くよ。 京都に行った時かな) |
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「足守一里塚」
この日、足守ではサンディ・ウォーキングの300人ぐらいが冠山城から足守陣屋を目指して歩いていました。
急いで車のところまで走り、足守陣屋に先回りをしましたが、時すでに遅く陣屋が大賑わいでした。 何で今日はこんなに走っているのかな。
いつも一人山城の中で、少し恐くなって走っているのにね。 |
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「八幡神社鳥居」
南北朝時代の造立で、安芸の宮島と同様に、柱の基部に稚児柱を持った大変珍しいものです。
在名の石鳥居としては、最古の部類にはいり、全国的にも貴重なものだそうです。
夢が幻に消えた同じ時を過ごした冠山城、重なる木の葉は教えてくれるのです。 「時の誤差、それが歴史の運命」だったことを。 |
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