鬼ノ身城
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岡山県総社市山田
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岡山自動車道、「岡山総社IC]を降りて国道180号線を西へ走ります。 「溝口交差点」から486号線、そしてすぐ県道80号線方向の「総社大橋」で高梁川を渡ります。 西へ5kmほどで54号線を北上し、山田幼稚園があるところから右手方向の集落の細い道をゆっくりと北へ進みます。
道なりに「華光寺」方向に行くと、さらに奥には標高284mの山頂に鬼ノ身城(きのみ)があります。
2003年12月、「備中の兵乱」で落ちた城跡に吹く風は、桜の季節に会いたい想いを運んでくれるかな。
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「扇の縄」という形式で、一から五の壇が稜線にあって、その横に六から九の壇があります。
分かりにくいよね。
扇を広げて、下から上にいく程広がった感じ。
上の半円部分が稜線で、そこに五つの壇があるよ。 やっぱり分かりにくいよね、見てね。
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文亀元年(1501)頃から上田氏が入り、上田光宝、家実を経て、天正年間(1573-92)の初めには、上田阿西が城を守っていました。 上田阿西は備中松山城主三村元親の弟・実親を養子に迎えて上田実親と称して家督を継がせました。
天正2年(1574)、三村氏と毛利氏の同盟は、備前の宇喜多直家が毛利氏と手を結んだことから三村氏と毛利氏の間で争いが起こりました。(天正の備中兵乱)
毛利勢は西から三村氏の持城を次々に落とし、総社市の経山城主・中島元行と川上郡成羽の鶴首城主・三村親成(三村一族だが毛利方についた)を案内者として、この鬼ノ身城を七重八重に取り囲み、攻撃を開始するのです。
城には三千人が籠城して、峰から石や大木を切り落とし、毛利勢に被害を与えました。 一時は寄せ手の毛利方も足並が乱れたものの、大軍で息もつかせぬ攻撃を繰り返しました。 この昼夜を分かたぬ攻撃に城内の男女が動揺しはじめ、実親も「ただ我が一身を捨て、家来たちの命を助けたい」と決意し、その意を毛利方に申し入れました。
こうして 弱冠二十歳の実親は切腹し城も落ちたのです。 三村氏の国吉城・楪城(ゆずりは)に続いて、この鬼ノ身城が落ちたことで、三村方がほぼ落城、毛利氏の大軍は三村氏の本城・備中松山城へと向かうのです。
天正4年(1576)、この城は毛利の勇将宍戸隆家の居城となり、城代として佐々部美作守が在番をしました。 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦後に廃城となったのです。
『参考文献を参照』
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集落の一番奥に着きました。
華光寺(けこうじ)と鬼ノ身城の別れ道です。 華光寺の境内には、城主・上田実親の五輪墓があります。
城へはまだ車でも行けそうだったけど、歩いて登りました。 |
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「亀甲池」
歩きだして10分、左側に池があります。 水は緑色、真ん中に島があります。
歩いてよかったです。 車だと運転にひっしで、このきれいな池を見ていなかったよ。
ここから、さらに奥へと歩きます。 |
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「蟻ケ峠へ」
どんどん歩いて30分、誰にも会わない。 風が山全体の木々を揺らしてる。
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峠から城跡へは山道になります。 最初に見た池が小さく見えてるよ。
池から右手方向に迂回するように歩いてきました。 左方向が城跡です。
この説明で分かるかな。 |
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城に近づいてきました。
三村氏の後、城には毛利氏家臣の宍戸隆家が入りました。
この宍戸隆家の妻は毛利元就の娘「五龍局」で、間に生まれた「南の御方」が元就の孫・輝元に嫁ぎ、末の女性が吉川元春に嫁ぎました。
そして宍戸隆家の孫の女性も小早川隆景の子・秀秋に嫁ぎました。
分かりにくいね。 ごめんね。 |
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小さな橋を渡ると桜の木がいっぱいです。 それで分かりました。
何故、電線や街路灯が山頂にあったのかが、花見だよね。
桜も満開の頃、いっぱいの人がビニールシートを敷いているんだよね。 |
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八の壇には井戸があったのです。
でも見るのを忘れました。 この奥の方だと思うのですが。 |
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経山城でも書いたけど、備中にも沢山のお城があります。
書き忘れてたのは、実は経山城主・中島元行は「中国兵乱記」の著者で、当時の様子を書き残していたのです。
岡山県立博物館の特別展示会で見れたらしいよ。 城跡に住んでた人が書いた本だよ。 実際の本を見たいよね。 |
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一の壇にある諏訪神社です。 ここから南側は瀬戸内海、四国までも見えるらしい。 でもよく見えなかった。
12月も後半、本格的な寒さがやってきました。
ただ分かりにくい城跡形式を語るより、壇で桜を見ながら「やっと春が来た」と語る人達を待っている城跡なんだね。
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