国吉城
岡山県高梁市川上町七地

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  岡山自動車道、「賀陽IC」で降りて国道484線、高梁川から国道313号線を西へ走ります。

成羽の鶴首城を見て、川上町役場のところから西の299号線へ入ります。 まもなく道の北側には標高420mの国吉城(くによし)が見えてきます。

 
  備中松山城の支城、三村氏のお城だよ。

でも備中兵乱の時、毛利氏に攻められるんだ。

三村氏のお城、そういえば鶴首城から久しぶりだね。

車で登れるから大丈夫、でもやっぱり緊張するよ。
 

 
備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将・小早川隆景の率いる二万の兵に、天正2年(1574)十二月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城です。

「備中府誌」によると、安藤太郎左衛門入道元理が北条家からこの地を地頭職として宛行われた。 この城を創設した時期は鎌倉期以前と思われ、兵乱後は毛利から口羽中務大輔春吉が在城しました。

また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、糟谷内膳正武則、八兵衛安長など慶長7年(1602)から同15年(1610)まで居城しましたが、翌16年(1611)に徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となりますた。

この城は「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城で、館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約1.5km離れた標高419.6mで、谷田より比高約140mです。

付近の地名に陣山、逆茂木谷、礼場、掛谷、水ケ迫、的場ノ段、小城山、玄番ケ鼻等があり、城の縄張りは総延長180mの城郭で、南北に連なる八曲輪と、西側より南側へ回り込んでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されています。

最北の郭を「一ノ壇」と仮呼すると、この郭は長さ70m、幅15〜18mで、その北端に長さ7mの小規模な土塁があり、「二ノ壇」は「一の壇」より0.5m上にあり、郭面は東西15m、南北24mの規模でここが主郭です。

その理由は城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って、「二ノ壇」に通じていることなどによります。

脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は15〜30m、比高は20m以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで延びる大規模なものです。

したがって城内の奥行を増し、攻勢、防禦の両面の機能を一層高めていました。

『現地案内を参照』

 

  
まんが絵ぶた
  「まんが絵ぶた」

国道313線の「地頭」から、西に曲がる所だよ。

川を渡り、南に行くと「吉備川上ふれあい漫画美術館」がある。

12万冊のまんがや原画があるよ。
 
国吉城
  あの山がお城、上まで車で登れる。

鎌倉時代、安藤元理が北条家からこの地を地頭として納め、国吉城を築いたのが最初です。

元弘の乱(1333)で、六波羅探題の北条仲時が番場で自刃した際、その三十二人の従士の一人が元理と云われています。

だからこの辺りは地頭というのかな。
 

  
途中
  けっこう上ってきた、まだ半分ぐらい。

左は国定鍾乳洞の磐窟渓、思わず「コスモス街道」繰り返し、右へ上ると城山公園。

少し細くなる、「落石注意」もあるけど大丈夫。

音楽消して、真剣に走る、少し足に感じるけど大丈夫。
 
国吉神社
  山頂近く、ここは国吉神社、民家があるよ。

駐車場に着く、少し歩くとお城の案内板。

歩く下り坂で石が見えた、100mほどで鳥居が見える。
 

  
壇
  長さ180m、南北に八つの壇があるらしい。

一番北が「一の壇」、少し高くなって「二の壇」。

「三の壇」には一番上の写真、井楼で主郭。
 
壇
  井楼の次は、四の壇。

この辺りに「三村氏の供養塔」があるはず、というのは後で知った。

五の壇、六の壇、そこまで見ようかな。

迷う気持ちを振り払い、漫画美術館に行くことにした。
 

  
備中の山
  東の方、山がきれいだよ。 あの山裾あたりが美術館だね。

車でノロノロと下りる、音楽は消えてる。

道の真ん中に何か落ちてた、手前で降りて見る。

横には「落石注意」と、上る時はなかったのに。

備中の秋、何色のペンで描いてくれるかな。
 

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