現在日本には20箇所ぐらいの古代山城が確認されています。 その多くは北九州にあるのですが山陽道や四国にもありました。
ここ岡山県では総社市の鬼ノ城と大廻・小廻山城、兵庫県では城山城が古代山城といわれています。 でも何故この場所に古代山城が造られたのか、考えてみるのも楽しいものです。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、5000kmにもおよぶ万里の長城を築きました。 秦はわずか28年で終わり、のち200年間は劉邦の漢の国、そして新・後漢を経て、曹繰・劉備・孫権・諸葛孔明の三国(魏・呉・蜀)と続きます。
その後は司馬氏の晋、戦乱の南北朝時代を経て589年に隋が始まります。 この時代の607年、小野妹子が遣隋使として大陸に渡りました。
618年、隋が滅びると李淵(りえん)を初代皇帝とする唐の時代になり、そして朝鮮半島の高句麗・百済・新羅に影響を及ぼし始めるのです。
645年、倭国では中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし、「大化の改新」が始ります。
660年、新羅の武烈(ぶれつ)王は唐と同盟を結んで百済を攻め、百済の義慈王(ぎじおう)を滅すのです。
百済が滅亡していく中で、豪族の鬼室福信(きしつふくしん)は百済王朝を再建させるために倭国に救援を求めてきました
その内容は、倭国にいた王子(豊璋:ほうしょう)を国王に即位させる為の百済への送還、もう一つは倭国から百済への援軍要請でした。
これに対して,斉明天皇をはじめ中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足らは飛鳥から筑紫(九州)へと出発するのです。
援軍は飛鳥を出て難波津から岡山県邑久郡の吉備大伯海(おおくのうみ)に着きました。 実はこの時、大海人皇子と大田皇女の間には大伯皇女(おおくのひめみこ)が誕生しています。 何とここで岡山県との接点があるのです。
661年には愛媛県松山市の伊予熟田津(いよにきたづ)から福岡市へ着き、翌年には百済に帰国した豊璋が王となりました。 しかし2人の考え方が異なり、豊璋は鬼室福信を殺害するのです。
663年、中大兄皇子の援軍は2万7千人の兵で博多湾から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へ向い、白村江で唐・新羅連合軍と戦いました。 この戦いで百済・倭国軍は敗れ、朝鮮半島は新羅によって統一されるのです。
敗れた倭国軍は、亡命を希望する百済人を伴って帰国し、唐・新羅軍の倭国上陸に対する防備として百済人の技術指導のもとで造ったのが古代山城といわれています。
のち中大兄皇子は天智天皇、 大海人皇子が天武天皇、そして倭国はこの頃から「日本」といわれ始めました。
『参考文献を参照』
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