一説には立石高国が築城したとも云われ、また立石高志とも云われています。
立石氏は、豊前国宇佐郡立石村(現:宇佐市立石)の出で、本姓は漆間氏で高野神社の神主職を得て勢力を伸ばしています。
明応7年(1498)、立石景泰の時、三星城の後藤勝国は見和山城を攻撃、景泰は城の東の笠松山で兵八十人を従え反撃、この戦いで勝国は討死しました。
文亀2年(1502)、景泰の子・久朝の時、後藤勝基が金室山城(勝北町)主・浦上行重と共に美和山城へ攻め寄せます。
久朝は、一族郎党二百人で、城の東の亀ケ淵で防戦するのですが、後藤勢は背後から城へ侵入、火を放つと、立石氏は敗走、久朝以下十七人は薬師堂で自刃するのです。
『参考文献を参照』
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