明禅寺城
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岡山県岡山市沢田
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山陽自動車道、「山陽IC]を降りて37号線を南下し250号線で西へ走ります。 国清寺の交差点を西大寺方面(東)に曲がると1kmぐらいで「護国神社」があります。
この神社の背後には標高170mの操山があり、その北側に備前・宇喜多直家と備中・三村の一大合戦が行われた明禅寺城(みょうぜんじ)があります。
2003年7月の備前は梅雨の中、崩れそうな岩の城跡が山城探索の心得を教えてくれるのです。
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山頂や登山道には沢山の石や岩がありました。 この岩の右に立てかけている石が気になります。 人工的に切られた四角い岩です。
何なのでしょうね。 |
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この城跡から東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄九年(1566)、岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城でありました。
翌年に備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されますが、宇喜多直家は奪還を果たすとともに三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩しと呼ばれた。
城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に、背後(南側)に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心郭(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっています。
城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段取りと背後を遮断する堀切りが遺構として確認できる程度であり、上部の建築物は柵や堀立柱建物を主体にした臨戦用城砦の構造であったと考えらています。
「現地案内を参照」
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「野球グランドのネット裏の登山口」
山城登山前の基本として、地元の年配の方に声を掛けることにしました。
神社参道口で音楽のドラムが前に置いてある店の隣の食堂で「みょうぜんじはどこ?」と尋ねた、「そんな寺はない」と。
漢字を説明すると「それは”めいせんじ”と言う」と、おじさん何故か気合が入ってくる。
Tシャツ姿を見て、心配になったみたいで地図を取り出し、眼光鋭く、説得するがごとく、登山口と山道を必死で説明してくれました。
長袖は必須みたいです。 |
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「落ちない石」
説明板に「落ちそうで落ちない石、受験する人はこの石のパワーをもらってください」と。
石の後ろに回って、すべりそうになりました。
受験より、こんなところで落ちたら大変、気をつけて。
まずは、すべらないように会社に履いていく靴下とデパートで買った運動靴での登山は再考の余地ありと思う。 |
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「操山の山頂付近」
この辺りで、城兵がうろうろしていたのを想像すると、ちょっと恐い感じです。
しかし蒸し暑い。 リュックを探してもタオルが無い、いつもは持っているのに。 しかたないから、ぼたぼたと流れる汗を唯一のハンカチでぬぐい、城跡へと向かいました。 |
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「萩の塚古墳」
山に住む人の心掛けはさすがです。 「火の用心」と達筆で書かれています。 |
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「操山から城跡への尾根筋」
地元の方だと思うのですが、ピッケルみたいなステッキ(棒)を持って、前をさぐりながら歩いていました。
こんなに整備されているところは大丈夫なのですが、草や木が茂った中を歩く時にはステッキが必要です。
いつもは、その辺に落ちてる小枝を拾って、音楽指揮者風にくるくる回しながらクモの巣を取るのですが。 問題は足元みたいです。 |
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「明禅寺城の山頂」
ここに休憩所があって、夫婦の方が休憩をされていました。 夫人は足をケガしたみたいです。
リュックから消毒液や包帯を取り出すと少しはかっこいいのですが、中にはデジカメの予備メモリと名刺。 なんと情けない。
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「岡山市の風景」
雲ってほとんど見えません。
バードウォッチングに来ていたらしく双眼鏡で小鳥を見ていた人がいました。 野球場で買った双眼鏡は家にあるはず。 やっぱり双眼鏡と磁石は必要かな。
お腹も減ったけど、当然食べ物も無し。
雲行きが怪しくなってきました。 そういえば、雨具や軍手も持っていない。 早く降りなければ。
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「すずめ蜂に注意」
とどめは、下り道にあった「マムシ」と「すずめ蜂」の出没写真。
こうなったら、毒抜き用の「ポイズンリムーバ」と熊避け用の「カウベル」も準備しよう。 家に帰ったら前に買っておいた「虫よけスプレー」だけはあるのだけど。
これで城跡探索の準備は完璧、でも冬のイノシシ対策はどうしたらいいのかな。
そんな山城探索の心得をしみこませ濡れた服で播磨へ帰った一日でした。 着替えもいりますよ。
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