備中松山城主の石川総慶(ふさよし)が延享元年(1744)に、亀山(三重県亀山市)へ移ったとき、北房町のうち、上中津井、下中津井、上平田、下平田の四ヶ村と、有漢町のうち垣、長代、川関、上村、中村、下村の六ヶ村、賀陽町のうち竹井、岩村、黒土の計十三ヶ村一万石は亀山藩の飛び領地となりました。
亀山藩は幕末のころ特にタバコの栽培を奨励し「なかつい刻」として関西から四国へ販路を拡げて藩の財政を潤し中津井の町も大いに栄えます。
陣屋跡は、代官所が置かれたところで、明治四年(1871)の廃藩置県まで、実に百二十七年間続きました。
現在ここに領界を示す石柱が残り、石柱は備中松山城下と美作国を結ぶ街道の多和山峠にあったものを後に移します。
『現地案内を参照』
|