撫川城
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岡山県岡山市撫川
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岡山バイパス、「妹尾西」から北のJR庭瀬駅を目指して走ります。
広瀬駅の北西すぐのところに庭瀬城(にわせ)があり、そのすぐ西にはここ撫川城(なつかわ)があります。
2003年7月、どしゃ降りの中、沼に浮かんでは消える雨粒が、備中の盛衰を教えてくれる城跡なのです。
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戸川氏は四代目・安風が幼少で世を去り断絶しますが、弟・達富が撫川領分を継ぎました。
戸川氏は四国の河野通信の後裔・稲葉通弘の四代の孫・富川正実が、備中児島に住み、宇喜多能家(直家の祖父)に仕えました。
戸川秀安は、直家の重臣で、永禄十年の明禅寺合戦、天正六年の播州上月城攻め、同九年の児島八浜合戦など数多くの戦陣を踏み功をたてた人物です。
また楽しみな人物が現れてきました。 |
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撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。 城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりを巡っています。
西半に高さ4m強の高石垣(野面積み)と東半には土塁が現存して、また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。
この城は永禄二年(1559)、備中成羽城主・三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。
備中高松の役、天正十年(1580)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。
その後、宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
戸川氏は安風(四代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けます。
撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
『現地案内を参照』
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「撫川知行所総門」
家並みの細い路地をうろうろしていたら、急にこの門が目に入ってきます。
この辺りへは、車でくるとえらい目に会うと思います。 石垣が見えているのに、行き止まりや袋小路で深みに落ちていくのです。
下調べをしていたので、車は国道の近くに駐車しました。 前が見えない傘の中、迷いながらけっこう探し回って、ヒザから下はビショビショです。 |
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「堀と石垣」
岡山県の戦国時代の城は、多くが山城で平地にあるのは珍しいらしい。
明禅寺城での山城探索の心得にしたがい、ステック(棒)と熊よけのカウベルを準備しました。 カウベルはすごく小さくてかわいい音がするけど、こんなので熊は逃げるのかな。
学校の用務員さんが、廊下を歩きながら授業の始まりを知らせてた鐘のイメージがあったのだけど。 |
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「城跡にある三社宮」
延宝八年(1680)、戸川達安が守護神として建てたといわれています。
日曜だというのに、子供達が遊んでいない。 こんなに遊びに絶好な場所があるのにね。
「撫川うちわの話」
江戸時代中頃、庭瀬藩や撫川知行所の武士達の内職として始められました。 やや大きめの扇面に優雅な図柄を透かして映すところに特徴があって、その技術で今も作っています。
撫川うちわ、どこかで聞いたような気がしますね。
さあ、夏もいよいよ本番です。 うちわ片手に城跡探索で乗り切ろう。 |
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