庭瀬城
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岡山県岡山市庭瀬
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岡山バイパス、「妹尾西」から北へJR庭瀬駅を目指して走ります。
広瀬駅の北西すぐのところに庭瀬城(にわせ)があります。
2003年7月、宇喜多直家に仕え動乱を生き抜いてきた戸川氏、七月・水辺に落ちる雨音は運命の不思議さを語ってくれる城跡なのです。
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「城跡にある清山神社」
自然の石で石垣をめぐらせた堀は沼城の典型とされています。
室町時代の末期、三村元親が備前の固めとして、この地に築城しました。 一帯は泥沼地で工事が難航したらしいです。
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室町時代の末ごろ(約400年前)、備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城しました。
付近の地名から芝揚城(こうげ)とも呼ばれ、一帯は泥沼地でひじょうな難工事であったといいます。
その後、宇喜多の重臣・戸川肥後守達安が入り(1602)、古城を拡げ城下町をととのえました。
元禄12年(1699)、板倉氏の居城となり明治を迎えました。
自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示しています。
寛政5年(1793)、板倉勝喜は城内に清山神社を建て、板倉氏中興の祖重昌(しげまさ)、重矩(しげのり)父子を祭り歴代の遺品を収蔵しています。
『現地案内を参照』
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「庭瀬城址の石碑」
戸川氏の後、板倉氏の居城となって明治を迎えました。
板倉氏は足利一族渋川氏の後裔といわれ、勝重は三河の松平氏に仕え、家康時代には京都所司代、江戸時代になると備中松山藩主となりました。
そういえば、板倉勝重は宮本武蔵の中では鬼の所司代として登場してますね。
板倉勝喜は城内に清山神社を建て、板倉氏の祖である重昌・重矩父子を祀り、歴代の遺品を収蔵しました。(現在は、吉備公民館に収蔵)
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「不変院」
直家の弟・忠家の子である左京亮は、戸川達安の妹・真了院妙円を室としました。
戸川秀安の室、つまり妙円の母・信城院日友は子供の菩提を弔うために建立したといわれています。
家系図がややこしい話ですね。
それにしても なぜか、手前にある墓地の中を通らなければ行けないのです。 ややこしいですが、次はどこに出るのか楽しみです。
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「街のくすり屋」
この街には昔の趣きがよく残っています。 他にも散髪屋さんとか玄関前まで近寄らないと何屋さんか、わからないところがとても面白いです。
古い街並かと思えば住宅地、お寺のお墓と思えば普通の家の駐車場、行けそうで行けない道、突然現れる石垣。
梅雨の撫川城・庭瀬城探索、地図で道を調べるより、迷いながら歩いている方が、不思議なことに迷っていない運命なのかもしれないね。 |
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