小田草城
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岡山県苫田郡鏡野町馬場
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中国自動車道、「院庄IC」で降りてから、国道179号線を北へ走ります。 6kmほどの下森原で「小田草神社」の道標がある所を北へ入ります。
この神社の背後には、標高390m(比高150m)の山頂に小田草城(おだくさ)があります。
この城から南に津山市、そしてずーと南には岡山市があります。 2004年4月、時が過ぎ去る「美作」は、ふと探索を振り返させてくれる城跡なのです。
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地図で見ると、丁度「美作」の真ん中ぐらいかな。
美作は赤松氏と山名氏を始め、備前・宇喜多氏、備中・三村氏、そして島根県・尼子氏と広島県・毛利氏の激戦地だったんだよ。 |
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標高390mの小田草山に築かれた山城で、築城の時期は、明らかではないが、山麓の小田草神社の梵鐘銘に「貞治七年(1364)三月二十四日小田草城主斎藤二郎」とあり、それ以前に築城され、斎藤氏の居城であったことがうかがわれます。
天文十三年(1544)、出雲の富田城主・尼子晴久が美作を侵攻した際、小田草城主・斎藤玄番は、高田城・岩屋城・井の内城とともに尼子の属将となりました。
永禄八年(1565)、富田城が毛利氏に包囲された時には、尼子義久の援軍の求めに応じませんでした。
(この時の使者平野又右衛門自害の話が伝わっています。)
その後、永禄十二年(1569)には、また尼子氏に従って参戦しますが、天正六年(1578)、尼子氏が敗れたことにより、斎藤氏は、当時、美作における毛利氏の対抗勢力であった宇喜多氏に属することとなりました。
この城は、南北に伸びる尾根上に築かれており、今も空堀や土塁が残り、曲輪もはっきりしています。 井戸跡もあり、麓を中心にして城跡にちなんだ地名も多く残っているのです。
『現地案内を参照』
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「小田草神社」
道路から神社の石段を駆け上った境内入り口です。
登る前は、電話でもしようかなと思った程度でした。 でも山からの帰りに屋根を見て感激。 目を凝らして端から端まで見入ってました。
いつもなら、帰りも電話器に気を取られていたけど、今回は後悔しなかったよ。 |
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「銅鐘」
この梵鐘には「貞治七年(1368)、小田草城主斉藤二郎」の文字があるらしい。 見たかった、今回も後悔している。 |
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「登山道」
神社に「小田草城址」の案内があって、その右手から登ります。
道には「手すり」「階段」と「電灯」までありました。 夜に探索に来る人も困らないね、でも夜に来ると何か大事な物を見落とすよ。 |
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「曲輪」
山頂です。
南北の尾根上には曲輪が並び、この辺りが主郭だと思います。 全長が130mぐらいかな、奥へと進んでみます。 |
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「曲輪の堀」
一つ一つの曲輪の間には、幅2mぐらいの堀があるよ、今まで見たことが無い造りだよね。
井戸もあるらしいけど、分からなかった。 |
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「堀切」
一番北の曲輪を降りた所にあります。 その下は丸太も転がる急斜面、さすがに恐いよね。
また南の端へと引き返し、「美作」の風景を楽しみました。 |
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「美作」
3年前なら津山しか知らなかった地です。 確かサッカーW杯で、スロベニアチームが英田郡美作町でキャンプをしていた時も、姫路からは遠いイメージがあって来れませんでした。
でも今、津山からまだ北の小田草城に一人立っています。
探索始めて1年半、こんなに変われるなら、3年後が想像できないね。
一つだけ言えるのは、変わろうと思って始めた探索ではないよ。
過ぎ行く時の中で「がんばろう」、ただそれだけの言葉で、この美作に立っているんだよ。 |
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