大植城
岡山県久米郡久米南町山手・大植山

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  山陽自動車道、「岡山IC」を降りてから国道53号線を北へ走ります。 御津町の金川城を過ぎ、久米南町の「金間交差点」から東の県道52号線へ、300mほどで457号線(上二ケ小鎌線)へ入り、ひたすら登ります。

この標高270mの山頂には大植城(おおうえ)があります。 2004年12月、初めて来たよ久米南町、二年間も待たせたね。

 
  初めて久米南町に来たけど、今までのページに沢山登場している町だよ。

備中の鶴首城主・三村家親が久米南町の興禅寺で陣を張っていた夜、宇喜多直家の刺客によって鉄砲で暗殺された所だよね。
 

 


永禄から元亀年間(1558〜1572)、沼元久家が在城し、初め天神山城主・浦上宗景に仕え、その後は当時沼城主・宇喜多直家に従いました。

永禄10年(1567)、備中の三村家親を暗殺した直家は、備中への侵攻を計画しました。 備中松山城主・三村元親は、猿掛城主・荘元祐や幸山城主・石川久孝らと併せて、直家方の明禅寺城を攻めるも敗北しています。

直家はその勢いで三村家親の撫川城、日幡城や植木秀長の佐井田城を攻め、この時の宇喜多勢の中に長船貞親、明石飛騨そして沼元房家の名が見えます。

永禄12年(1569)、尼子氏再興を願う尼子勝久は、美作の三浦氏と協力して毛利氏から高田城を奪い返す時に、三浦氏方は直家に援護を求め、直家は長船貞親、岡剛介そして沼元房家を向かわせています。

天正元年(1573)、直家は沼城から岡山城へ移ると、主君・浦上宗景との仲は険悪となり、この美作でも宇喜多方と浦上方が争いました。

天正5年(1578)、宇喜多方は蓮華寺山城(久米南町)に難波十郎左衛門・忠兵衛豊国、沼元彦右衛門や新左衛門が立て籠もると、浦上方の本丸城主・小坂與三郎、延原家次、岡本太郎左衛門氏秀らが攻撃しています

でも天正3年(1576)には、天神山城は直家にて攻略され、浦上宗景は播磨に逃れて、黒田官兵衛の客将になっている説もあるから、蓮華寺山城の戦いはもう少し前かもしれないね。

『参考文献を参照』

 

  
すでに山頂近く
  「すでに山頂近く」

久米南町は山陽自動車道と中国自動車道の中間あたり、今日は中国側の津山から来たよ。

美作の朝は霧、曇ってきたよ。 最近美作に来ると天気が雨模様になる、前の井の内城も雨やったし。

長くクネクネした道を走ってきた、すでに標高200mぐらい、夏来たら緑いっぱいかな。
 
登城口
  サイクリングロードだけど、一段ギアの探索用では無理なコースだよ。

ここに車を止めれる場所がある、実際は100mほど先の家がある所から登って、ここは降りてきた所だよ。
 

  
井戸
 

この井戸、どこかで見た井戸に似てる、そう備中の秋庭氏居館の所。

これは大発見かも、でもお家の方が使っているみたい。

 
屋敷跡
  山頂までは5分ぐらい、途中の竹林が段々の平削地になっている、屋敷跡だったのかな。

ここまでは普通の道、ここから細くなるよ。 でもすぐに山頂。
 

  
瓦
  山頂近く、おびただしい瓦の破片を発見。

置塩城の見学会で教えていただいたように、つなぎ合わせると「人の銘」が彫られているかも。

でも、数百年も経てば落ち葉や土が乗っていそうだけど、とにかく瓦には間違いなさそうである。
 
帯曲輪
  正方形の様に角がある主郭、その周囲を回ってみた。 3段の平らな帯曲輪が取り巻いている。

誰も来ないのかな、落ち葉と小枝がミシリミシリと音を出す。

自分の足音だよね、立ち止まり耳をすますと静か。
 

  
主郭
  右の木に「大植城址」の碑がもたれてる。

2年前に、久米南町文化協会主催の「くめなんの山城をたずねて」の冊子をいただいた。

コースは「大植城」「上殿城」「安盛城」「立畑城」、雨で中止したらしいけど、あと3つも一人で行くのはつらいよ。

どこで、ミシリミシリと鳴っているのかな。
 
堀切
 

主郭から南東の方へ、大きな堀切がある。 まっすぐでなく、クネクネしているよ。

向こうが見えないから歩いてみた。

ここでもミシリミシリ、自分の足音だと思うけど。

立ち止まってもミシリミシリ、向こうの端まで歩きたかったな。

 

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