小笠原左近将監近忠は信濃国長船庄より福岡郷靱負村に来住し、これより村の名「長船村」となりました。
その子孫より刀工光忠、長光らがあらわれ、兼光は足利尊氏の太刀を鍛え、恩賞として一丁四方の屋敷を賜り、 この跡を「城の内」として今に伝わっています。
のち長船越中守、長船紀伊守、長船吉兵衛らが宇喜多家の家老職につきました。 長船綱直は宇喜多家の老臣長船越中守詮光(貞親)の子で、天正16(1588)年父越中守が虎倉城(現在の御津町)で殺害され、相続して越中守と称しました。
文禄3(1594)年、伏見城普請のとき宇喜多家の普請奉行としてつとめ秀吉の信任を得、仕置に任ぜられます。 また紀伊守は秀家の信任も厚く岡山城の改築、文禄地検を行いました。
慶長3(1598)年秀吉死後、紀伊守は浮田左京、岡越前守ら武将派によって殺害されます。 関ヶ原の戦いの後は長船氏は大庄屋などを務めたといわれています。
この屋敷跡の東側の竹やぶの中には、西行法師が諸国行脚のとき、長船にきて腰を掛けたと伝えられる腰掛石があります。
「長船にかちする音の聞ゆるはいかなる人のきたうなるらむ」の歌碑が建っています。 また土師正通寺の現在の客殿は紀伊守が住んでいた邸宅を譲り受け建立したものといわれます。
『現地案内を参照』
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