乙子城
岡山県岡山市乙子

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  岡山ブルーライン、「西大寺IC」まで行き、岡山牛窓線(28号線)を南へ500m、千町川筋の交差点を西へ入り、千町川沿いに「乙子大明神」か「大国神社」を目指して1kmほどで行くと、吉井川沿いに、こんもりしたかわいい丘が見えます。 ちなみに千町川筋の交差点を東に行くと、直家が誕生した砥石城があります。

この標高50mほどの丘には、備前の覇者、岡山城主にまで登りつめた宇喜多直家の乙子城(おとご)があります。

2003年4月、今では直家の「国とりはじめ」の地として語られている城跡なのです。

 
宇喜多直家 国とりはじめの地
  「宇喜多直家 国とりはじめの地の石碑」

後ろが城跡で、北と南の2箇所に入り口があります。

この地は、浦上宗景の領地の一番西南に位置し、吉井川の対岸には、宿敵・松田氏、南には細川氏、そして瀬戸内海の海賊と、三方を敵に囲まれていました。

青年・直家は自分から志願して、この地を選んだともいわれ、戸川秀安、長船貞親、岡利勝、花房正幸らが直家の騎下に加わり、五年の間、堅く守っていたのです。
 

 
宇喜多直家が天文十三年(1544)に構えた悌郭式小型山城で、のち備前国を平定し戦国大名に成長した直家が、城主としての第一歩を踏みだした記念すべき城でした。

城は、本丸・二の丸を構え、腰曲輪、出曲輪が配され、現在の乙子大明神境内は二の丸の場所、大手筋は現在の参道筋と判断されています。

各郭は、ともに土段築成で、石垣は認められず、本丸の背後に土塁の一部が残っています。 乙子城は、児島湾と邑久郡千町平野それに上道郡南東部を一望でき、臨海性の戦術拠点でした。

宇喜多直家は天文十二年(1543)、浦上宗景の家臣となり、赤松晴政の軍と播磨で戦い殊勲をたて、この戦功と祖父能家の旧功によって、足軽三十人と三百貫の領地を与えられ乙子城主となりました。

直家は、ここに五年間在城し、この地の治安維持と戦功を挙げ、その恩賞に岡山市竹原(上道郡奈良部)の新庄山城を与えられ、天文十八年(1549)に移転しています。

その後、乙子城は持城として、弟の浮田忠家を城主に置いていましたが、宇喜多直家が永禄二年(1559)に亀山城(岡山市沼)に移り、岡山市平野の平定が進むにつれ、その存在価値が薄らぎ廃城になったと云われています。

「現地案内を参照」

 

  
  「本丸」

本丸・二の丸を構え、腰曲輪や出曲輪が配置されて、本丸の背後には土塁の一部が残っています。

外敵が多く、その分の兵をかかえていた為、食料不足に悩んでいました。 直家以下全員が1ヶ月に3から5度は絶食をし、食料を貯えたそうです。
 
  「吉井川」

当時の海岸の河口は、この乙子城のあたりで、まさに最前線の地だったのです。

今はほんとうに静かなところです。

青年時代の宇喜多直家は、同じ風景の中で大きな夢を物語っていたんだよね。
 

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