嵯峨山城
岡山県津山市中島

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  中国自動車道、「津山IC」を降りてから国道53号線を西南へ走ります。 国道181号線との分岐地点から更に1.5kmほど南へ走り、「大渡橋」で皿川を西へ渡ります。

この大渡橋から西方向1km、標高288mの山頂には嵯峨山城(さがやま)があります。

2004年12月、久しぶりの美作は一人で来るも良し、二人で来るのもいい、無言でも微笑みがあればいいんだね。 

 
  岡山の津山には沢山の山城があります。

嵯峨山城ではなくて、佐良山になっているけど読みは「さがやま」でいいのかな。
 

 


明徳2年(1391)、山名氏に対し、足利義満は同じ山名一族の氏清・満幸に命じて時煕・氏幸を討たせ、山名氏が内紛を起すと、その領地は大内氏・畠山氏・一色氏・赤松氏に与えられました。(明徳の乱)

翌年、赤松則祐の子・義則は美作の守護となり、則祐の兄・範資から三代後の赤松教弘が嵯峨山城主となります。

天文年間(1532-54)、出雲の尼子経久の美作侵攻で、尼子氏方の錦織利政(利路)が嵯峨山城に入るのですが、毛利氏が出雲に攻め入ると錦織氏は城を手放しました。

永禄9年(1566)、富田城が毛利氏により落とされ尼子氏が滅びると、美作へ侵攻した毛利氏は医王山城・神楽尾城そしてこの嵯峨山城に部将を置きました。

元亀元年(1570)、備前の岡山城主になった宇喜田直家は毛利方と対抗するために、武将・花房職秀(職之)に荒神山城を築かせ、翌年には嵯峨山城を急襲して花房次郎四郎に守らせました。

直家は美作の三星城を攻め落とし、天正8年には岩屋城を毛利方から奪うことで、山陽道の小早川隆景、山陰からの吉川元春の東上を妨ぐことになるのです。

秀吉の中国攻めが始まると、毛利輝元は織田軍との合戦の境界は備中と考え、防備の七城(宮路城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・松島城・庭瀬城)を構えました。

天正10年(1582)、備中高松城で秀吉と毛利氏が和睦した後も、美作の毛利方の属将は不服とし、矢筈山城主・草刈重継が嵯峨山城を攻撃するのですが、足利義昭の仲裁により、毛利氏と宇喜田氏は和睦し、毛利方の諸城は全て開城、その時に嵯峨山城は廃城となるのです。

 

  
登山道
  麓の酒屋さんで道を尋ねて、最初はもう一本左の道を進んでは戻り、やっとこの場所です。

素直にまっすぐに歩けばいいのに、ここも右へ入りました。
 
間違い
  「間違い」

山道に入ると、いきなり木々が塞いでる、今年の台風で山がメチャクチャ。

なんとか30mほどジャングルの中を進んでみたけど、枝が服をつつくし、今日は諦めることにしたよ。

 
登山道
 

一旦、麓まで降りたけど、2つ上の写真の道をますっぐに進むことにした。

来る前に、山の位置や高さを調べておけばいいのにね。

「ようこそ」の「そ」の字が気になったけど、ほんと案内はほっとするね。 (この字体はまむし注意の”し”かな)

 
むごん坂
  緩やかな坂をかなり歩いた、まだなのかな。 と思う頃にむごん坂。 ここから少し急になるけど、道が広いから安心。

いつも一人だから、しゃべらないけど、二人で来ると「むごん」になるんやろね。
 

  
山頂
  ここは山頂のすぐ下、けっこう歩いた30分ぐらいかな。

最初のジャングルを二人で這い上がって来たら「むごん」どころか「二度と口聞いてもられない」ぐらい遠かったよ。
 
本丸
  ここに城跡の図面案内がある。

空堀が宇喜多式で虎口が花房式とあるけど、山全体と図面を照らし合わせるのは難しいね。

図面を眺めては探し、戻っては眺めて探す。

二人だと、あきれて何も言わずに帰ってしまうよ。
 

  
堀切
  とにかく虎口と堀切は分かったので写真。

来る時、高速道路の料金所で「堀切」と名札付けた人がいてどきっとした、山城と関係があるのか聞いてみたかったけど。

まさか、ここと関係あるとは思えないしね。
 
無言の風景
 

「無言の風景」

美作の12月は霧が多いのかな。 晴れてたら津山市街から山々が素晴らしいと酒屋の方が話していたよ。

二人で同じ風景の中で感動を分かち合うか、それとも一人で心の中に収めるか。

どちらでいいかな、この美作の風景、無言でも気持ちは微笑むしかないよね。

 

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