下津井城
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岡山県倉敷市下津井
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瀬戸自動車道、「児島IC]で降ります。 県道21号線で児島半島の最南端、下津井港まで行くと、その背後には標高88mの丘陵に下津井城(しもつい)があります。
2003年12月も残すは一週間。 強く生きてきた人たち、一つの戦いが多くの運命を変えていく、この下津井城でも静かな海に少しの運命を見たような気がします。
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鷲羽山から見る瀬戸の夜景、漁港と街並み、そして城跡。
静かな海も、目の前に輝いています。
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この城は慶長のはじめ宇喜多秀家にって築かれたが、小早川の家臣・平岡石見が居城、次いで慶長八年(1603)、池田忠継入国と共に、家老・池田河内守長政(禄高3万2千石)の守るところとなり、城郭に一大整備がなされ城は慶長十一年に現在の遺構にみるような本格的な形態をととのえるに至ります。
後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て一国一城の制令のため寛永十六年(1639)廃城となりました。
「現地案内を参照」
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「瀬戸大橋」
姫路から国道2号線の地道を走り、やっと着きました。
霞んで見える瀬戸大橋の左側の山が下津井城です。
車は麓の祇園神社の東側の駐車場において、歩いて登りました。
明石大橋の夜景は毎日見ているけど、鷲羽山から見る瀬戸大橋の夜景も最高やろうね。 |
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「城の入口」
祇園神社から北へ歩くと、「城山登山道」の石標があります。
途中、瀬戸の島があまりに美しくて、見入ってました。
ここから四国の丸亀城も見えるそうですよ。 四国も行ってみたいよね。 |
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「三の丸石垣」
三の丸の北側面に降りると、この石垣があります。
近世のお城だけど、この部分や井戸があるところの本丸側面の石垣の雰囲気はとてもいいよ。 |
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「井戸曲輪」
この井戸は、本丸の東側の奥にあります。 上の写真の石垣があるとこから木々を掻き分けながらたどりつきました。
普通の道があって、そんなところを通らなくてもいいのだけど、木と草を掻き分ける習性が身についてしまっているのだろうか。
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「二の丸」
池田長政がこの城を改築する際に、この児島の東・玉野市の常山城の建築物を使用したそうです。
そして由成が天城陣屋へ移る時に、山門を持っていったのが天城の正福寺の門だそうです。 |
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「堀切」
二の丸と西出丸の間から北(左)へ堀切が延びています。
宇喜多直家とお福の間に生まれたのが宇喜多秀家です。
秀家は秀吉にかわいがられ、前田利家とまつの間に生まれた四女・豪姫を正室に迎えています。
しかし慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、秀家は西軍の主力となって奮戦したのですが壊滅・敗走し、薩摩の島津家へ逃れました。 |
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「天守台跡」
3年後、幕府へ出頭し死罪は免れたものの、二人の子息とともに八丈島へ配流されるのです。
豪姫は娘を連れて実家に身を寄せ、夫と息子を安じていました。
加賀三代藩主・前田利常(豪姫の弟)は幕府と交渉し、1年おきに八丈島に米などを送ることが許されました。
以後幕末まで、前田家から八丈島の秀家の子孫に援助が続けられたのです。
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「祇園神社から」
秀家は、島で約50年を過ごし、83歳で世を去りました。
そして妻豪姫は夫と息子を案じつつ金沢で生涯を閉じたのです。 |
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「下津井漁港」
幼少の頃に城を追われた宇喜多直家が岡山城主にまで這い上がり、そして子・秀家が八丈島へ流される運命。
「関ヶ原の合戦」、歴史を決める大合戦だと一言で語ってしまうが、そこには戦い敗れた夫・それを安じ続けた妻がいる。
一つの戦いは、多くの運命の集まりなんだね。
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