高越山城
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岡山県井原市東江原町
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山陽自動車道、「玉島IC]で降ります。 県道54号線(倉敷美袋線)を北上し、「井原鉄道」とほぼ平行に走る486号線を西へと走ります。
猿掛城を小田川沿いに見ながら更に西へと進み、井原市に入って3kmほどで荏原(えばら)小学校方面への道を北へ入ります。
この学校の北側には標高172mの山頂に高越山城(たかこしやま)があります。
北条早雲の生まれた城、そんな故郷の話を聞かせていただいた丹波・柏原陣屋での約束。 2004年2月、それは備中への「里探索」だったのです。
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「北条早雲生誕の地」
高越山城は早雲の若き頃に過ごした城であり、そして「里」でもあったのです。
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高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと云えています。
戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享四年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。 その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。 その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。
現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。
『現地案内より』
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「高越遺跡」
高越山城を目指して国道486号線を西へ、着いたのは井原市役所の近く、いつの間にか5kmほどオーバーです。
戻って慎重に北側へ曲がり、荏原小学校の裏あたり「高越山城」の標識をオーバー、東へ曲がり「車での山道」標識をオーバー、北側の集落でやっと気持ちも落ち着き、着いた所に大きな駐車場があります。
ここは弥生時代後期の「高越遺跡」、広い駐車場に車が一台、そして広い遺跡に一人です。 でも春の日には、梅や桜の周りに沢山の人がいるんだよね。 |
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「堀切」
高越遺跡のすぐ南の登城口に堀切があります。 でもよく見てないと通り過ぎてしまうよ。 整備されていても、堀は残してくれているから嬉しいね。 |
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「登り道」
不思議なものです。
秀吉の備中高松城の水攻直後から天下に目覚め、そして天下統一の最後が北条氏の小田原攻め。 これで北条早雲以来の五代は姿を消していきます。
早雲と言えば、東の方の話だと思っていたけど、ほんと「城と人」はつながってくるから探索は面白いよね。 |
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「三の郭」
この城はすごく整備されているよ。 何かあるかなと草の中に入っていったけど、ここでは見つからなかった。
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「一の郭」
別名「北条ひろば」です。
近くの井原鉄道の駅は「早雲の里荏原駅」という名だったよ。 町も気合が入っているよ、柏原の人が里として語ってくれたのがよくわかるよ。
そのことは姫路市民として見習うべきところだよ。 姫路城は確かにすごいと思う、でも姫路城を里としているかというと、そうでもないよね。
世界文化遺産の名ばかりが目立つけど、里としての姫路城でもありたいよね。
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「石で囲まれた穴」
何か石で囲まれた穴があったよ、井戸にしては小さいような気もするし。 何かな。
電信棒木を立てる穴かな。 (電柱のことを姫路は電信棒木という、「電信をする棒状の木」で非常に丁寧な言葉)
ここを見れて感激、でも本当に何かな、また教えてね。 |
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「東の山里」
段々となった田んぼが見えるよ。
春が近づくと緑、そして水田には流れる雲が映し出されるんだよね。 |
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「池の氷」
社会人になって、ゆっくりと氷すら見なかった。 子供の頃はごく当たり前の風景だったのにね。
最近、沢山の城を見て、そのほとんどは「里」として語れるお城でした。
でも「わが里、白鷺城」という会話は聞いたことがないよね、「世界」もいいけど「里」としても語れる城であってほしいよ。
里を語れる高越山の城、そんなお城がある街にも、もうすぐ春がやってきそうだよ。 |
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