天智天皇の臣・藤原鎌足の次男・不比等、その次男が藤原北家の祖・藤原房前(万葉では藤原北卿)です。
藤原房前の五男が藤原魚名(ふじわらのうおな)、次男・永手、三男・真楯や豊成とともに道鏡を排除した人です。
その藤原魚名を祖とする浅香氏がここを居城としました。
正平年間(1346-69)、浅香宗勝は南朝方として忠節をつくし、その子孫が代々と城を守るのですが、文亀元年(1501)、落城しています。(詳細は不明だけど、細川政元や三人の養子、澄之・高国・澄元の争いと思われる)
天正年間(1573-91)、秀吉が四国征伐のために堺に在陣した時、浅香重宗の長男・宗胤が協力、この浅香山は先祖の旧領地であることを進言すると、城跡一帯を賜りました。
大阪城の落城後も松平忠明からこの地の所有を許され、浅香氏代々が守りました。
『参考文献を参照』
|