昔、平城天皇の第二皇子・阿保親王の別邸が置かれていた、だから別所になったんだね。 北は大和川、今では田んぼが広がる、でも真ん中が一段高く、周囲の堀跡が分かるよ。
羽曳野市の高屋城主・畠山高政が入り、のち勘解由までが守っていました。 元亀三年(1572)、信長は河内国中の城の破却を命じ、この別所城も廃城となりました。 また一説には、慶長六年(1614)の「大坂の役」の時、畠山勘解由は堺に逃れ、その一族である別所小四郎が戻り居城したとも云われています。 『参考文献を参照』