応安二年(1369)、南朝方である楠木正成の三男・正儀(まさのり)が、細川頼之の仲介により足利義満に降参したことが、楠木氏一族の反感をかい、正儀は天王寺の陣から退き、この榎並に陣を構えています。
享禄五年(1532)、細川晴元と三好政長が差し向けた本願寺証如光教と木沢長政の軍により、三好長慶の父・元長は堺で敗れ、顕本寺で自害しました。
この時、長慶は幼少のため、晴元に付き政長が援けていたのですが、長慶の勢力が増大すると、政長と対立するのです。
天文十七年(1548)、政長が榎並城を築き、子・政勝に守らせていましたが、長慶は弟・十河一存らに榎並城を攻めさせました。 この時、政長は淀川の北岸にある江口城に入りました。
しかし、長慶と一存は江口城を攻め落とし、政長は討死、政勝も榎並城を捨てて瓦林城に逃れ、榎並城は廃城になるのです。(江口合戦)
『参考文献を参照』
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