享禄三年(1530)、三好元長は細川晴元を援けて、細川高国を尼崎で破ると、近畿に勢力を広げました。
天文元年(1532)、晴元は元長の存在を恐れ、本願寺証如に働きかけて、堺で元長を討ち取るのです。
元長の子・長慶は、幼少の為に父の仇である晴元に従いました。 長慶は畠山氏の重臣である飯盛城主・木沢長政や遊佐長教を打ち破り、ついに父の復讐をするのです。
永禄四年(1561)、長慶は晴元と和睦するよう足利義輝から求められ、使いを晴元に遣わせました。 晴元は長慶のもとを訪れた時、この普門寺に幽閉されました。
永禄六年(1563)、細川晴元は、この普門寺で世を去るのです。
永禄七年(1564)、三好長慶も世を去ると、足利義輝が政治権力を握ろうとしましたが、長慶の跡の権力を取ろうする三好三人衆(三好長逸・岩成友道・三好政康)と松永久秀らにより、義輝は京都二条城で奇襲を受け、命を奪われました。
そして三好三人衆に擁立された足利義栄(よしひで)が、四国からこの普門寺に入り、征夷大将軍に任じられます。
しかし、信長に擁立された足利義昭が京都に入ると、義栄は三好三人衆や篠原長房らと対抗するのですが、阿波へ戻り病で世を去るのです。
『参考文献を参照』
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