文安年間(1444-49)、足利幕府の御番衆・茨木氏が、この地に城を構えたのが始まりです。
文明十四年(1482)、摂津守護・細川政元は当地の国人を制圧するために三宅城を攻め、その後は茨木城を落として茨木氏を自刃に追いやりました。
政元は吹田城も落とし、茨木城と吹田城は守護代・薬師寺元長に守らせています。
大永六年(1526)、細川高国と細川晴元が争った時、茨木城方は高国に味方していたのですが、高国方の薬師寺兄弟が守る山崎城が、晴元方の波多野氏や柳本氏により攻め落とされると、茨木城・太田城・安威城・福井城・三宅城も晴元方になるのです。
永禄十一年(1568)、信長が足利義昭を擁して摂津に侵攻した時、三好長慶に属していた茨木佐渡守は信長に味方しました。
元亀元年(1570)、一向一揆や三好三人衆が、野田や福島に城を築いて信長に対抗した時、高槻城主・和田惟政と共に戦うのですが、白井河原での戦いで池田勢に敗れ茨木氏は滅びています。
その後、荒木新五郎が茨木城に入り、天正五年(1577)には中川清秀が守りました。
天正六年(1578)、荒木村重が信長に叛いた時、中川清秀は村重とは姻戚関係であることから、最初は村重方に付くのですが、清秀の義弟・吉田左介らにより、茨木城を開城し、信長に従うのです。
天正十年(1582)、「本能寺の変」の後は、清秀は秀吉に仕えていましたが、「賎ヶ岳の戦い」で討死、子・秀政が跡を継いで、秀政が兵庫県の三木城に移ると、茨木城には安威城から安威五左衛門が入りました。
慶長六年(1601)、「賎ヶ岳の戦い」での七本槍の一人、片桐且元が城主となるのですが、「一国一城」の命令により、摂津は高槻城が残り、この茨木城は破却されるのです。
『参考文献を参照』
|