茨木城
大阪府茨木市片桐町・元町

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  名神高速、「茨木IC」から14号線で南へ走ります。

「中穂積交差点」から東のJR「茨木駅」を越え、茨木市役所を越えて、北にある小学校のあたりが茨木城(いばらぎ)の跡と云われています。

2006年2月も大阪のお城。 今回は大阪から京都への西国街道、沢山出会えるかな。

 
  建武の頃に楠木正成、安富氏または福富氏が築いたとある。

戦国時代を経て、片桐且元の時代に破却されるんだね。

ここはお城域の南、茨木神社だよ、小学校の北側が本丸と云われているよ。
 

 


文安年間(1444-49)、足利幕府の御番衆・茨木氏が、この地に城を構えたのが始まりです。

文明十四年(1482)、摂津守護・細川政元は当地の国人を制圧するために三宅城を攻め、その後は茨木城を落として茨木氏を自刃に追いやりました。

政元は吹田城も落とし、茨木城と吹田城は守護代・薬師寺元長に守らせています。

大永六年(1526)、細川高国と細川晴元が争った時、茨木城方は高国に味方していたのですが、高国方の薬師寺兄弟が守る山崎城が、晴元方の波多野氏や柳本氏により攻め落とされると、茨木城・太田城・安威城・福井城・三宅城も晴元方になるのです。


永禄十一年(1568)、信長が足利義昭を擁して摂津に侵攻した時、三好長慶に属していた茨木佐渡守は信長に味方しました。

元亀元年(1570)、一向一揆や三好三人衆が、野田や福島に城を築いて信長に対抗した時、高槻城主・和田惟政と共に戦うのですが、白井河原での戦いで池田勢に敗れ茨木氏は滅びています。

その後、荒木新五郎が茨木城に入り、天正五年(1577)には中川清秀が守りました。

天正六年(1578)、荒木村重が信長に叛いた時、中川清秀は村重とは姻戚関係であることから、最初は村重方に付くのですが、清秀の義弟・吉田左介らにより、茨木城を開城し、信長に従うのです。

天正十年(1582)、「本能寺の変」の後は、清秀は秀吉に仕えていましたが、「賎ヶ岳の戦い」で討死、子・秀政が跡を継いで、秀政が兵庫県の三木城に移ると、茨木城には安威城から安威五左衛門が入りました。

慶長六年(1601)、「賎ヶ岳の戦い」での七本槍の一人、片桐且元が城主となるのですが、「一国一城」の命令により、摂津は高槻城が残り、この茨木城は破却されるのです。

『参考文献を参照』

 

  
神社の石垣
  「神社の石垣」

境内にはお城の石も使われているよ。

「一国一城令」により破却、片桐貞隆は桜門を大和小泉(慈光院の表門)、追手門は江戸屋敷へ、そして搦手門を茨木神社の東門に移しました。

茨木小学校の門は櫓門が復元されている、でも忘れていたよ。
 
川端康成文学館
  「川端康成文学館」

東は商店街、西には水はないけど、茨木川が流れている。

北に走れば、西国街道、西に歩けば郡山宿本陣。

その北の集落が、川端康成が若き頃に育ったところです。

西国街道、いろんなお城がありそう、沢山行けるかな。
 

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