信濃国高遠城主・保科正則の子には正俊がいます。 正俊は武田信玄に降伏し、その家臣となり信濃先方衆(120騎持)の一人として活躍しています。
正俊の子・正直も武田氏に仕えていたのですが、天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣になりました。
正直の子には正光・正貞がいて、正光は信濃国高遠藩の初代藩主となりました。
慶長二十年(1615)、正貞は「大坂夏の陣」で、徳川軍・本多忠朝の陣に属して天王寺表で功績を挙げたのですが、兄・正光が徳川秀忠の側室の子・正之を養子に迎えると、正貞を廃して、次の藩主にさせるのです。
正貞は保科家を去り、桑名藩・松平定勝に身を寄せ、のち幕府の臣となり大坂城や二条城の在番を勤めていました。
慶安元年(1648)、大坂定番となり有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡が与えられ、飯野藩(千葉県富津市下飯野)を設立させ、この地に代官所を置いて浜屋敷と称したのです。
『参考文献を参照』
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