明応五年(1496)、本願寺八世蓮如上人が、この石山に隠居所の別院を建立したのが始まりです。
永正三年(1506)、蓮如の跡・実如は細川政元と畠山義豊との争いで、政元から支援要請を受けて参戦し、本願寺は武装化してくのです。
天文元年(1532)、畠山義宜・筒井順慶が飯盛山城の木沢長政を攻めた時、長政に味方する細川晴元の要請により、本願寺の実如の子・証如は、門徒二万人を率いて義宜・順慶を破り、三好元長を堺に攻めて自害に追いやりました。
天文二年(1533)、証如は晴元との対立の中、周囲に堀や土塁を築き、城郭として防備を築いたのが石山本願寺の始まりです。
証如の跡・顕如の時代には、武田信玄、北条氏康、六角義賢らと盟約を結び、かつての敵である晴元の養女を正室に迎えるなど周囲を固めていきました。
元亀元年(1570)、織田信長は本願寺の明け渡しを要求してきました。 顕如は全国の門徒に武器を持って大阪に集まるよう檄を飛ばし、ここに石山合戦が11年も続くのです。
信長は、尼崎・吹田・花隈・能勢・大和田・三田・多田・茨木・高槻・伊丹有岡など、大阪周辺に付城を築き包囲をすると、対する本願寺は周囲に五十一の支城を置いて籠城に備えました。
天正八年(1581)、ついに信長は石山本願寺を落とすことはできず、正親町天皇の仲介により、顕如と信長は和議を結んで、本願寺の教如は紀伊に移りました。
しかし、教如の明け渡しの後、本願寺は燃えて全て焼けてしまうのです。
『参考文献を参照』
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