郡山城
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大阪府茨木市郡山1丁目
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名神高速、「茨木IC」から少し西、郡の集落へ入ります。 小高い山には少年院、その東側には郡山城(こおりやま)の碑があります。
2006年2月も終わり、いつの間にか春が来る。 まだまだ大阪のお城は沢山あるのにね。
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坂道を登ってきたました、久しぶりだからゼイゼイいうよ。
ここも石碑と説明がある、茨木市にはほんと感心する。 |
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「郡氏由緒書」によれば、高利平太夫(郡兵太夫、郡正信)は、摂津国高槻城主・和田伊賀守に仕えて、この国立浪速少年院辺りにあった郡山城にいて、近郷七か村を支配していたと云われています。
ここから約300m西へ行った、大阪府営茨木郡山住宅B9棟の辺りに「城の内」「門口」など、城の位置をしめす地名が残っています。
『現地案内を参照』
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この石はお城の石垣に使用されていたそうで、三ツ鱗・三ツ星印が刻まれています。
郡山、こおりやま、急に奈良のお城に行きたくなってくる。
春の季節は気持ちを誘う、飛鳥への道、歩いてみたいね。 |
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「白井河原合戦跡」
171号線を北へ渡り、耳原公園の南側にあります。
この茨木川あたりで、合戦をしたんだ。
そこへ荒木村重・中川清秀が激突するんだよ。
右側には沢山のお地蔵さまがあるよ。 |
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「和田惟政の供養塔」
郡山城の東、171号線が直角に曲がる所の北側、川を渡った所だよ。
白井河原合戦で、和田惟政は中川清秀によって討たれるのです。
主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「主を討たせて、どうして生き残れようか」と切って出て討ち死にし、白井河原は唐紅のように真っ赤に染まったと云われています。 |
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