小山城
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大阪府藤井寺市津堂
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西名阪自動車道の「藤井寺IC」を降りて、西の2号線を北へ走ります。
大和川の手前には城山古墳、そこが小山城(こやま)です。
2006年1月は大阪のお城。 大和川の南には沢山の古墳、その一番北の古墳もお城だったんだね。
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「城山古墳」
藤井寺市や羽曳野市には、日本で2番目に大きな応神天皇の古墳をはじめ、沢山の古墳があります。
その古市古墳群の中でも一番北に位置するのが、この城山古墳です。
でもお城を造った時は、古墳だとは知らなかったんだね。
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南北朝時代の初め、八尾城主・別当兼幸と対抗した南朝方の志貴右衛門のお城と云われています。
のち、畠山義就が重臣・安見清時を小山城主にし、以後、清範・友重と代々安見氏の居城となりました。
永禄九年(1566)、小山城は三好康重に攻められ落城し、安見氏は開城し交野城へと退き、小山城は三好氏の支配下となりました。
天正元年(1573)、信長軍による若江城の三好義継を攻めた時、織田信包や滝川一益は小山城も攻撃し落城するのです。
『参考文献を参照』
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「津堂城山古墳」
明治45年、後円部から巨大な長持形石棺が現れ、初めて古墳と分かったらしよ。
出土した銅鏡・勾玉や埴輪から4世紀から5世紀、一説には「志紀王」のお墓と云われてる。
話は変わるけど、大学入試センター試験の日本史の問題が新聞にあった、解けないもんだよね。 |
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「志紀王」
天智天皇の第七皇子・志貴皇子が志紀王と云われています。
この志紀王の第六子が白壁王(しらかべのおおきみ)、つまり道鏡を追放し、皇位を継承した光仁天皇だよね。
人は過去を考え未来を導くと言う、でも答えを知った未来は、さびしく味気ないよね。 |
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