十河一存(そごうかずまさ)が築いています。 この十河一存は、三好元長の四男、つまり兄は三好長慶、三好義賢、安宅冬康で、阿波の勝瑞城で生まれた人です。
そして三好元長の兄弟には政長がいます、つまり長慶や一存の叔父ですね。
三好元長は細川晴元の家臣として、高国との争いで功績をあげたのですが、その勢力は晴元から脅威と思われ、また兄弟の政長からも妬まれる存在となりました。
享禄五年(1532)、晴元と政長が差し向けた本願寺証如光教と木沢長政の軍により、元長は堺で敗れ、顕本寺で自害しました。 その後、政長は長慶や一存からは父の仇として敵対していくのです。
天文十八年(1549)、細川晴賢・三好政長の兵がこの柴島城で陣を構えると、長慶がこれを攻め、三好加助や河原林又兵衛ら十六人が討死し、残りの城兵は榎並城へ退いています。
そして長慶は十河一存らに榎並城を攻めさせると、政長は淀川の北岸にある江口城に退き、ついに政長は自害するのです。
『参考文献を参照』
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