応仁二年(1468)、西軍の大内政弘が椋橋城を攻撃し、これを奪うのですが、のち東軍が奪回しています。
文明二年(1470)、再び攻撃した時には東軍・摂津守護代の薬師寺与一の家臣・夜久主計允に防がれました。
天文三年(1534)、管領・細川晴元と三好長慶が不和となり、長慶は一向宗徒と共に椋橋城に籠ると、対する晴元方の伊丹国人衆は討って出たのですが、三好勢により敗れました。
同じ年、晴元方は再び攻撃するのですが、一向宗徒の前に有力部将六十人あまりを討たれ敗退しています。
その後、晴元は畠山氏家臣・木沢長政をつかわして長慶と和睦するのですが、一向宗徒は収まらず椋橋城に籠る長慶を信貴山城へ追い払うのです。
『参考文献を参照』
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