久宝寺城
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大阪府八尾市久宝寺
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近畿自動車、「八尾IC」を降りてすぐ東の街、その寺内町には久宝寺城(きゅうほうじ)があります。
2006年1月は大阪のお城。 昔が今残る街の中、ゆっくり歩いて探してね。
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町には聖徳太子が建立した久宝寺がありました。
寺内町は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤状、環濠と土居で囲まれていました。
出入り口は6ヶ所、町への出入りは木戸門で行われていました。 |
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久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われています。 満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称しています。
麟角堂を創建し又毎年七月十四・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと云われています。
満貞の嫡子・光重は播州安井郷を受領し、安井氏と改姓し、定重の時に信長に仕えていましたが、天正五年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落しています。
城跡は寺内町西北の出隅に「城土居」の地名を残しているのです。
『現地案内を参照』
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「長曽我部盛親 物見の松」
町の東、今口門があって八尾の町に通じる道筋にあります。
大阪夏の陣、大坂城から進出してきた長曽我部盛親の軍は東の八尾方面にいる敵を偵察していたんだね。
この五輪塔は正覚寺合戦で討死した人を祀っています。
お城の碑は、ここに地図がある。 まっすぐ西へ行って北へ歩くよ。 |
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「久宝寺御坊顕証寺」
文明二年(1470)、蓮如上人はこの地に西証寺を建立し、のち六男・蓮淳を迎えて顕証寺と寺号を改めました。
本堂の南にある墓地、幅2mの溝は昔の堀だそうです。
安井氏の子孫は安井道頓、あの大阪の道頓堀を開いた人と云われているよ。
碑は、お寺から北へ歩いて少し西だったかな。 |
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「畠山満家の墓」
久宝寺の町から西へ、北亀井町の真観寺です。
応仁の乱の時、畠山氏の内部で対立が起こり、畠山政長と子・尚順はこの亀井付近で陣を構えました。(正覚寺合戦)
左を見ると三好長慶、義継のお墓があるよ。
話は変わるけど、「その時歴史は動いた」、物部守屋のお墓。 一城前の稲城で立ってた所が映る、感動。 |
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「三好長慶・義継の墓」
細川晴元の執事として活躍し、のち細川氏や畠山氏をもしのぐ長慶、でも家臣の松永久秀により、子・義興は毒殺されました。
そして長慶の弟である十河一存の子・義継が長慶の養子に入ります。
でも足利義昭に味方したから、信長に攻められ、若江城の門上で自害するんだね。
大阪、沢山ありすぎて、ゆっくり歩いていると太陽がいなくなるよ。 |
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